恋とははた迷惑なもの


<6-6>

 嫌なこととは得てして重なるものである。
 単なる偶然とか、悪いことばかりが印象に残っているなんてチャチなものでは断じてない。もっと恐ろしい何かが、私の不幸の底に陥れようとしているのだ。
 立ち尽くす私と、言葉を失った劉生と外村君が対峙する。先ほどの言い争いの勢いは消え、代わりに気まずそうに口元を歪めたのが外村君。
「ねーちゃん、どうしてここに」
 そう言いながら、躊躇なく私に近づいてくるのが劉生だ。遊歩道と雑木林をわけるロープを跨ぎ、まっすぐにこちらに向かって来る。表情は硬く、声も訝しさを隠さない。私は思わず後ずさる。遊歩道を彩る小さな花を、引いた足で踏みつけた。花よ、遊歩道を手入れする職員さんよ、すまない。劉生のために、今日も小さな命が失われていく。罪深い男だ。
「ねーちゃん、さっきの話聞いて――」
 言いかけた言葉を飲み込んだのと、足を止めたのは同時だ。踏み出しかけた足を戻し、劉生は顔をしかめる。
「……具合、悪いの?」
 劉生は静かに呟いた。瞳は私を見据えたまま、どこか責めるような色を持っている。いつも犬のような劉生の表情が陰るのは、少し怖かった。
「まだ風邪が治ってないんだ? 駄目だよ、家で大人しくしてないと」
 私に向けて、劉生の手がゆるりと伸びる。
「帰らないと、ねーちゃん」
 私をさらうように、劉生は腕を掴もうとする。捕まったらきっと、そのまま家まで運ばれて、寝かしつけられるのだ。それは待ち望んでいたことのはずだが、なんとなく嫌な気分がして私はまた一歩足を引く。
 ――どうして、欲しい言葉を最初に言うのが劉生なのだろう。
 炎天下の騒動に付き合わされて、私の体力は急降下だった。もともとの不調も相まって、私の顔色は驚きの青白さを示しているだろう。それは吉田さんも知っているし、心配してくれた。それで先輩も店長も、水を買いに行ったのだ。わかっている、それはわかっている。
 しかし。胸の内が震える。危うくほろりと泣きそうになる。悔しい。なんでただの一言、「帰れ」と言われただけで、頑迷な私の心が崩れそうになるのか。熱のせいだ、と私は自分に言って聞かせる。
 大したことではないのだ。付き合わされたのは確かでも、帰りたければ自分で勝手に変えればよかった。それもわかっている。実際、劉生に会わずとももう帰れそうだったではないか。
 私は唇を噛む。劉生が逃げる私を見て眉根を寄せた。いくら倒れそうでも、劉生に頼りたくはなかった。
「ねーちゃん……」
 少しの間、互いに言葉が無くなる。何事かと、店長と吉田さんも駆け寄ってくる。劉生の背後から、外村君が小走りにやって来るのも見えた。
「成瀬ー、そんなに具合悪かったの?」
 空気の読めない先輩の声が後ろから聞こえる。そうです、そんなに具合が悪かったんですよ。一緒に居てよく気がつかなかったと先輩たちに感心するべきか、劉生に対して、よく見ていると褒めるべきか。いいや褒めない。なにがなんでも褒めない。
 対する劉生には、周りの様子など目に入らないらしい。わずかも私から目をそらさず、代わりに一つため息を吐いた。
「意地張らないで、帰るよ」
 意地など意地でも張っていない。ただ、少しばかり個人的に、劉生に弱みを見せたくないだけだ。ゆえに、私は心にもないことを言う。
「大丈夫だから。大丈夫」
「そんなわけないだろ」
 一刀両断。劉生はなんとかやり過ごそうとする私の心を踏みにじり、今度は逃すまいと詰め寄った。私の頭上に、木陰とは違う影が落ちる。ラフなTシャツの襟が眼前に見え、視線を上げればわずかに汗の浮かんだ劉生の顔が――近い。距離感がおかしい。
「帰るよ」
 劉生の腕が、私の手首を掴んだ。瞬間、私はそれを思い切り振り払う。その後「嫌だ!」と、言ったか言わなかったか。私自身も定かではない。なにせその後、そのことさえ瑣末に思えるような行動に走ったのだ。
 そう、文字通り「走った」のだ。
「ねーちゃん!?」
 私は反射的に、劉生の手を振りほどいて駆け出していた。雑木林も遊歩道も無関係に、劉生からまっすぐ逃げられるように最短距離を走る。どこへ、と尋ねられれば、そんなものは知らん。

 〇

「待って、なんで逃げるの!」
 劉生の声が離れ、そして追いついてくる。背後から。どたどたと、何人かの足音が連なってくる。追いかけてくるのは劉生だけではないらしい。
 なんという野次馬たちだろうか。人のゴシップを追いかけるなんて、相手の気持ちを思いやっていたらきっとできないはずだ! 体の内から憎しみが込み上げてくるようだった。まったく私が逆の立場だったらさぞや楽しいだろうに!
 しかし、ここで残念なお知らせである。私の体力が底を尽きる前に、この追いかけっこは終わってしまった。周囲の奇異の目を一身に受け、大きな噴水の前に私は追い詰められていた。
 どうやら走っていた方向は、噴水方面だったらしい。巨大な円形の噴水の、腰も掛けられる段差の前で私は立ち止る。背後では噴水が吹き上がっているらしく、水しぶきが降り注いでいた。
「ねーちゃん――」
「劉生、やめろよ」
 息を切らせ、私を捕まえようとする劉生を、引き留める腕がある。同じように肩で息をする外村君だ。炎天下とはいえ、男二人が汗に濡れながら呼吸を荒げている。さては私も、と思って自分自身を確認してみれば、全身溶けるように汗を流していた。そろそろバターになる頃合いだろう。
「なんだよ光一」
「成瀬さん、嫌がってるだろ」
「でも」
 何やら険悪な二人の様子を窺いながら、私は大きく息を吐いた。何度深呼吸しても、汗も早い鼓動も収まる気がしなかった。たまにふらりと目の前が黒くなり、前にも後ろにも構わず倒れそうになる。
「ねーちゃんの様子を見ろよ。俺が連れて帰らないとだめだろ」
「わかってる。けど、お前は駄目だ」
「は?」
「見て分かるだろ。成瀬さんは、“お前”を嫌がってるんだ」
 劉生が憎々しげに外村君を睨む。そうだ、言ってやれ外村君。ただしできれば手短に、早く終わらせてくれ。
「なにが言いたいんだよ」
 劉生の言葉に、外村君は一拍置き私を見た。が、すぐに劉生に目を戻す。彼の端正な顔が、どこか冷たい表情を作った。
「お前、成瀬さんに何したんだよ」
 手短である。劉生が言葉を失くし、ただ外村君を見つめ返した。こうかはばつぐんだ。劉生にも――私にもだ。
 まったく、朦朧とした意識ほど頼りないものはない。外村君のそれ以上の追及を逃れたかったのか、劉生の返答を聞きたくなかったのか。私は背後に逃げ場などないと言うのに、なんとか逃げようと後ずさった。
 足が段差に引っかかる。それで体が傾いて、これはいかんと段差に手をつこうとしたのだが、溶けかけた私の汗のよく滑ること。支えを失った体に感じる浮遊感。ああ、青い空だ。太陽に目がけて、吹き上がる水の柱が見える。飛沫が光を反射して、煌めいては消えていく。
「ねーちゃん!」
「成瀬さん!」
 どうにも霞みがちな意識の中で、二人の声を聞いた。同時に、二本の腕が伸びてくる。恐らくは、外村君と劉生が私を捉えようと、手を伸ばしてきたのだろう。
 ――掴まなくては。
 落ちていく自分の体を感じる。空の青さと微かな恐怖が私の体を満たす。
 ――助けて。
 伸びてきた手を掴み返そうと、私は視線を空から少し下げた。しかしどうやら、そこで私の体力はついに限界を迎えたらしい。意識が薄らいでいく。
 ――待って。
 あとは無意識だ。自分でも気がつかずに、縋るように誰かの腕を掴もうとして――。
 一瞬、世界が途切れる。

 ――助けて。


 ――――――劉生。

 ○

 目を開ければ水浸しで、おまけに喉の渇きが微かに癒えていた。が、なにを飲んだかは考えたくない。
 水浸しだが、水の中にいるのではないらしかった。視線は立っているときと似たような高さだった。しかし私の両足は、地面ではなく宙を蹴る。はて。
 視線を巡らせると、驚きと好機の目をした先輩たちが映る。少し移動すると、外村君の唇を結んだ、気難しそうな表情がある。さらに周囲を窺えば、噴水まわりの人々の視線を独り占めしていた。手でも振った方が良いのだろうか。
「帰ろう」
 劉生の声が間近で聞こえる。その声と共に、私の体が揺れた。方向転換したらしい。はて。
 ――はて、じゃない。能天気な目覚めの自分を殴ってやりたい。
「な、なにやってんの!」
 私は身動ぎした――劉生の腕の中で。劉生は全く意に介さず、私を抱き上げている。片腕はひざの裏へ、もう片方は肩へ。いわゆるお姫様抱っこだ。恥ずかしくて再び溶け出しそうだった。なぜ、劉生がこの状態で固形でいられるのか、私には理解できない。
「お、おろしてよ。劉生、おろして」
 返事ひとつもせず、劉生は歩き出した。一歩踏み出すたび、池の水面が大きく揺れる。水の高さは膝下までで、劉生のハーフパンツも裾が浸かってしまっていた。
 劉生は水から上がると、先輩たちを一瞥し、少しの間外村君と無言で睨みあった。胸が竦むような、居心地の悪い空気を感じ取る。ただでさえ、公園の視線は私たちに向いているのだ。この後の展開に興味津々と言ったところだろう。耐えられない。
 耐えられないついでに、ひとつ気がつく。この後どうやって帰るのだ? 公園から私の家までそう遠くはない。言ってしまえば、歩いて帰れる。そして、劉生は私を下す気はないらしい。はてさて。
 はやくこの意識が遠のいてくれるのを、私は待つばかりだった。


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