厄介の上塗り


<7-2>

 藤野は私と同じく、実家が近くにありながら一人暮らしをする親不孝者だ。似た者同士と仲良くなったのはいいが、家賃光熱費はすべて親持ち。おまけに仕送りをいやらしいくらいもらっていると聞いたときは、しばらく口を利きたくなかった。
 そんな藤野の実家までは、最寄駅から電車で二十分揺られた先にある。さすがに交通費まで支給されなかったら、私はこの話を蹴っていた。

 我が暑苦しき城から一転、冷房の効いた肌寒いくらいの部屋で、私は懐かしい問題達と向き合っていた。およそ一年半前。受験期には苦労した問題を、藤野の弟である裕介君が解いている。適当に問題を見繕って、あとは解くのを待つばかり。意外に楽な仕事だ。それに裕介君は藤野の弟とは思えないほど物わかりが良かった。
 裕介君は座卓に向かい、私はその横でぼやぼやと、彼に解かせている問題を眺めていた。初秋のこの時期なら、まだそう難しい問題は出てこない。基礎の積み重ねと簡単な応用、それにちょっとした引っかけ問題。わかっていれば解けるはずだ。少なくとも、一般的な大学生ならこれくらい解いてしかるべきだろう。
「成瀬ー」
 私はペンを持ち、問題の引っかかりやすそうな部分を自分でも解いてみていた。
「成瀬ー、ねえなるせー」
 肩が揺れて視界がぶれる。描いていたグラフが恐ろしく難解になった。私は無言で消しゴムを取る。
「なるちゃーん。なっちゃん、なーるせっ」
 背後から甘えるように首に抱きついたかと思えば、きゅっと殺し屋の手腕で絞めにかかってくる。危うく意識が飛びかけた。生きている代わりに、解きかけの問題が消えた。消しゴムの反逆である。
「なああるううせええええ」
「うるさいなあ!」
 私を揺する腕を取り、私は背後を振り返った。そこにいるのは面倒くさいの代名詞、藤野だ。退屈を塊にしたような形状で、私にとりついている。
「裕介君が勉強してるんだから、静かにしなよ。姉でしょ? 自分で呼んだんでしょ?」
「だって退屈なんだもん」
 面倒くさい。
「成瀬が遊びに来てるのにさあ。暇だよ。ひまー」
 そう言って、藤野は笑いながら、私に掴まれた腕まで揺する。怒られていてさえ、相手にされることが嬉しいらしい。
 致し方なく、私は手に持っていた問題を藤野に渡した。
「じゃあ、はいこれ」
「うん?」
「暇なら解きなよ。裕介君がやっているのと同じ問題」
「えー……」
 退屈しのぎにはちょうどいいだろう。私も受験期は、暇さえあれば問題を解いていたものだ。
「先に解けた方が、もう一人が解けるまで休憩ってことにしよう。ほら、裕介君も解き始めたばっかりだし。早く終われば構ってあげるよ」
 渋々受け取る藤野を見やり、私は自信を持って言った。
「これくらい、すぐに解けるよね、藤野?」

 結果はしかり。
 私は裕介君と短い休憩を取っていた。藤野の母君がくれたジュースを舐めつつ、しばしの歓談をする。
「成瀬さんって、イチコーの卒業なんですよね。あそこ、いい学校ですよね」
「そうかなー」
 イチコーとは、私の母校の愛称だ。第一高校、略してイチコーである。
「どうですよ。友達が通っているんですけどね。校則はゆるいし、学祭は派手にやるし、女子は可愛いですし。楽しそうですよ」
「へええ」
「そんな他人事みたいな」
 私の反応に、裕介君は苦笑いをした。くしゃりと顔を歪めると、裕介君と藤野はさすがに姉弟らしく似ている。そんな藤野姉弟にうっかり劉生と私を重ね合わせ、私の表情も苦くなる。
「高校のことはあんまり覚えてないんだよ。卒業してからも、一度も行ってないしね」
 高校時代は我が青春の暗黒時代である。できることならあまり思い出したくもない。
「もったいないですねー。部活とかも顔出さないんですか?」
「運動部じゃなかったしなー」
 ほとんど帰宅部同然の生物部だった。いつもハムスターを撫でるだけの日々に、たいそうな愛着はない。
「学祭に行ったりとか」
「一緒に行く相手いないし」
「えっ、友達とは?」
 彼の質問に答えず、ぱちぱちと私は無言で瞬く。途端に、裕介君の顔がしょぼくれていった。居心地悪そうに体を縮め、ジュースを一口含む。地雷を踏んでしまったときの顔である。
「もしかして成瀬、友達いなかったの?」
 そこへ裸足で地雷を踏み直す。さすが藤野である。解きかけの問題を前に、やる気のない態度でシャーペンを回す。それがなかなか華麗なペンさばきで腹立たしい。普段から講義中に技術を磨き続けた結果だろう。よどみなくペンを回す技術と引き換えに、彼女の単位は華々しく散っていったのだ。
 まったく悪気のない藤野の隣で、裕介君がばつの悪い表情で私を覗き見ている。彼が姉の性質に影響を受けなくて、本当に良かった。裕介君は将来、真っ当な人間に育ってくれるに違いない。
「まあ、その性格だもんね。友達できない理由もわかるわー」
「お姉ちゃんには言われたくないと思うよ」
 慣れたように裕介君が咎める。藤野の性格は家でも外でも変わらないらしい。
「デリカシーないし、好き勝手言うし。それでよく友達なんてできるよね」
「人間的魅力だよ」
「冗談じゃない」
 裕介君が怖気を奮ってそう言った。対する藤野は不満の顔である。眼前の問題はすっかり忘れているらしい。ペンを座卓に叩きつけ、半ば膝立ちになって滔々と語る。
「私という人間が素晴らしいから、自然と人が集まって来るんだよ。だから好きなことを言っても許される。むしろ好きなことを言う私のことを、みんなが好きなんだよ!」
「そんな性格だから彼氏もできないんだよ」
 裕介君、それは言っちゃいけない。大きな地雷が埋まっているのだ。
「彼氏ができないことの何が悪い」
 膝立ちだった藤野が、すとんと腰を落として言った。今度は静かな声だ。表情はなく、口角がわずかに上がっている。怒っているのか笑っているのか判別できなかった。
「むしろ彼氏ができたからどうだって言うの。そういう、年頃になったら彼氏ができないといけないみたいな風潮、私はどうかと思うよ。それで無理して恋人作って、結局別れるんでしょ? そんな無駄な時間を過ごすくらいなら、私は学生らしく勉強を恋人にする」
「お姉ちゃん、そういうところが彼氏できない理由だよ」
 言ってやるな、裕介君。胸に刺さる。
 私は二人のやりとりを聞きながら、心の中で藤野を擁護した。なんだかんだ言っても寂しいのだ。特に藤野は、勉強ともだいぶ昔に破局している。心を慰めてくれるのは詭弁とペン回しの技術くらいなのだ。
 そうして藤野を擁護する言葉さえ、私の胸に刺さる。かく言う私も同じく寂しい大学生だった。
「別に無理しなくたって、大学生になったら彼氏くらいできるでしょ。そうじゃなくても、好いたり好かれたりとかさあ」
「ない」
「ちょっとくらい。普通に」
「ない」
「いや、お姉ちゃんにはなくてもさ」
 ちらりと裕介君が私を見る。次いで、藤野も見る。なにかを求めるような二人の視線に、私はいやな予感を覚えていた。予感と言うよりは確信だ。この時私には、裕介君が地雷原に立つ兵士に見えた。
 裕介君が口を開く。
「普通は、彼氏くらいできますよね、成瀬さん」
 すまない、裕介君。私の地雷は一つではないのだ。
 私は無言のまま瞬いた。おそらく藤野と同じ表情をしている。
 裕介君の顔から、血の気が引いていくのが見て取れた。

 ○

 どうも、歩く地雷原こと成瀬です。
 裕介君に勉強を教えながら、私はずっと暗黒の高校時代に思いを馳せていた。
 思えば一、二年のときは平和だった。友達もいた。部活ではハムスターを飼っていた。顧問の先生は私の受験相談にも応じてくれた、いわば恩師と言えよう。劉生目当てで近付いてくる後輩もいたりした。
 そうして知り合った人々とは、町で偶然会えば話をする。たまにメールが来れば返事をする。外村君のように、新たにバイト仲間という関係を築くことだってある。
 だけどそれだけだ。自分から誘わない。会わない。高校時代を思い返すようなことはしない。
 私は卒業してから一度も、母校に帰ったことがなかった。
 何かの拍子に、当時のことを知ることが怖いのだ。
 ――私が破局させた一組のカップルの顛末を。
 私はずっと逃げ続け、そして地雷だけを埋め続けてきた。一年半、ひたすら勤勉に地雷を埋めてきた甲斐あって、最近よく破裂する。

 藤野から三百円を握らされ、交通費をもらった。
「じゃあ、また来週よろしくね」
 少し日が陰り始めた頃合いだった。午前中から勉強を教えてこの時間。今さらすぎるがどう考えても割に合わない。
「成瀬さんの教え方、すげーわかりやすかったです。またお願いします!」
 しかし裕介君にこう言われては、断るわけにもいくまい。裕介君は姉と違って飲み込みが良く、教えたことはまじめに実行。わからないこともちゃんと質問をする。実に張り合いのある生徒だった。藤野の場合はこうだ。「わからないところはある?」「全部!」「帰れ」
 玄関で暇を告げ、私は藤野家を出た。藤野家の外観も立派なもので、我が実家よりも一回りは大きかったことは余談である。なにげに彼女は金持ちだ。それでどうして三百円。もう少し給料を上げてほしい、切実に。

 庭付き一戸建ての並ぶ閑静な住宅街をしばらく歩くと駅前に出る。私はぼやぼやと空を見上げながら道を行き、ぼやぼやとしながら切符を買った。
 そしてぼやぼやと、帰路とは違う路線を選ぶ。
 高校に通っていたころ、いつも通学に使っていた路線だった。


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