厄介の上塗り


<7-3>

 雪彦について語る。
 雪彦は私の生物部生活で、最も仲の良かった友人である。
 そもそもが、生物部とは仮の姿の帰宅部である。活動熱心な部員たちは我先にと帰宅するものだから、部活でろくろく友達ができるはずもない。稀に帰宅をサボって生物にうつつを抜かす不埒な生徒もいたものだが、そんな彼らでは逆に私が力不足だった。生命の本質について語られ、原核細胞への愛を説かれても理解できるはずがない。実に宙ぶらりんなまま、私は生物部室で雪彦と戯れるのだ。
 その雪彦は、私の卒業を待つ前に他界した。寒い冬の朝であった。私は親友を失った。
 私は顧問だった高原先生と共に、雪彦のために校舎の裏に小さな墓をつくり、埋めた。少し泣いた。彼が残してくれたのは、生物部での友情深い日々の思い出と、幾多もの彼の子供たちであった。
 お分かりだと思うが、雪彦はハムスターである。
 侘しい高校生活だったと言わないでいただきたい。ペット禁止令を敷かれていた私にとって、手のひらで丸くなる、ふわふわとした生温かい雪彦は本当に癒しだった。

 ○

「雪彦の子供たちがまた産んでさ。何匹かもらっていかない?」
 久々に会った恩師の、開口一番の言葉がそれであった。
 斜めに陽が差し込む理科室。ひっつめ髪の中年女性が、なにやらの採点の手を止めて私を見る。細く知的な顔にセンスの吹き飛んだ眼鏡をかけた彼女こそ、生物部顧問の高原先生である。
 恐る恐る、懐かしい教室に入った私を迎えたのは、静かな空気と回し車の音と、異常なまでの魚くささだった。それに、教卓の前で黙々と採点をする高原先生。整然と机の並ぶ教室は、大学とは違う異様な統率感を私に感じさせた。
「あの、いや、うちのアパートはペット禁止なので」
 尻込みしつつ、私は律儀に答えた。学生の借りる安アパートにペットなど贅沢品である。そもそも、自分の生活に追われた人間にペットなど飼えるものか。ペットを飼うより、私が飼われたいものである。
「ん? 一人暮らししてんの?」
「ああ、はい、一応」
 言いながら、私はそろそろと教卓に近づいた。高原先生の正面に立ち、気まぐれに彼女の採点しているものを見る。
 化学の試験だった。問、酸素と水素が結合して何になるか。答えを見れば「愛」とある。残念、愛はそんな簡単に生まれない。
 高原先生は顔色一つ変えずにバツをつける。
「今大学生だっけ」
「はい」
「ふうん、今日はなにしに来たの? ハムスター触りに?」
「いや、別にハムは」
「ハムスター、触るのはいいけどストレスためさせないでね。わかってると思うけど」
 先生の思考はハムスター色に染まっているようだ。私だって、撫でられるものなら撫でまわしたい。雪彦が召されてからこの方、埋まらない心の溝にハムスターをぎゅうぎゅうと詰め込みたい。
 しかし今日は、これでも用事を携えて来たのだ。
「高原先生、あの、久々に来たのにはわけがありまして」
 私はかしこまり、口を開いた。高原先生は眼鏡の奥で訝しげに目を細めた。
「聞きたいことがあるんです。私が卒業してから後のこと」
「聞きたいこと?」
 舐めるように私を見まわして、高原先生は首をひねった。
「はい、劉生……うちの弟に関連することなんですが」
「劉生……」
 考えるように、高原先生は赤いペンで教卓を小突く。
「…………あれ、もしかしてあなた、成瀬? 成瀬隆子?」
「えっ」
 今までの会話はいったい。
「ああ、久しぶりだねー。薄情者!」
 知らずに会話をしていた先生が空恐ろしい。久々に顔を合わせたら、まず名前の確認をするのが先だと思っていたのは、どうやら私だけの狭量な常識だったらしい。
「それで、雪彦の墓参りにでも来たの?」
「先生、いい加減ハムスターの話題から離れましょう」

 改めて、私は先生と向かい合った。これから神妙な話をするのである。決して小さな毛玉を愛でるわけでも、メダカに餌をやるわけでもない。
「先生、劉生のこと覚えているんですか?」
「うん、まあね。たまに遊びに来るからね」
「……へえ? 高原先生に会いに?」
「他にも用事があるみたいだけど、私にも挨拶していくよ」
 意外だ。高校時代の劉生は、私が頑としてお断りした結果、生物部ではなくほとんど遊びのような写真部に入った。写真部の、生物部に勝るとも劣らない帰宅部っぷりは有名で、劉生はたびたび私に帰宅勝負をしかけてきた。足早に帰宅を狙う私のあとを、ぴたりと付けてくるのだ。私が劉生をストーカーだと認識したのは実のところここ数年のことだ。しかしよく考えれば、当時からその片鱗は見られた。さらに言うなら、彼の盗撮の腕前は、この帰宅写真部によって鍛えられたと言っても過言ではない。
 要するに、文系で部活も違う劉生は、生物兼化学教師の高原先生とは、ほとんど関わりがないのだ。それでも挨拶に来るのは、どうも妙な気がした。
「それで、成瀬弟のことで、なに?」
 椅子に腰かけた先生が、立ったままの私を見上げる。私は彼女の瞳を見返しつつ、なんと質問するべきか考えていた。
「…………川崎さんについて」
 こぼれるように私の口から滑り落ちた。
「劉生の彼女だった、川崎礼美さんについて、聞いてもいいですか?」
「川崎……」
 先生は目を細めて、眼鏡の奥から鋭く私を睨んだ。採点の手は止まっていた。
「先生、わかりますか、川崎さん」
「……まあ、名前くらいはね。でも、聞きたいことってなに。弟に聞いた方が早いんじゃないの?」
「もう、ずっと前に別れたそうです」
「じゃあ、川崎は成瀬にとって、弟の別れた彼女? 他人じゃない。それとも成瀬、川崎と友達だったの?」
 いえ、と私は答えた。静かな声は溶けるようにゆっくりと消える。
「それなら、妙に詮索するようなまねはしない方が良いでしょう。あんまり聞かない方が良いこともあるんだから」
「それって」
 話は終わりとばかりに顔を逸らした高原先生に、私は慌てて声を投げかけた。
「川崎さんが、学校を辞めたってことですか?」
 先生がはっと目を見開いて、再び私に視線を戻した。互いに顔を見合わせ口をつぐむと、教室の静けさが嫌になるほど感じた。ハムスターの回す回し車の音、メダカの水槽に沈んだポンプの音、時計の針の音。規則正しい音だけが、耳を通り抜けていく。
 先生の口は重く、なにかを隠そうとしているのを感じた。個人情報に類するものだからだろうか。しかし、高原先生がそんな生真面目な教師でないことはわかっていた。だからこそ私は、先生を尋ねたのだ。
 私は指の先を、少し握った。この沈黙は未来永劫続くように思われた。

 空気を壊したのは、ひとつの電子音だった。
 鞄の中に沈んでいた携帯電話が鳴っていた。気まずさを感じつつ、私は先生に断りを入れて、携帯電話の画面を確認する。劉生だった。私は鳴り響く携帯電話の着信音を止めると、再び鞄の奥に沈める。
「いいの?」
「いいんです」
 再び音が鳴る。私はためらいもなく切る。いつもいつも着信拒否にしているのに、どうして朝目が覚めるたびに、拒否設定が解かれているのだろう。あれか、ゲームで言うところの、一晩寝たらステータス異常が回復しているのと同じ現象なのか。
「誰から?」
 鳴りやまない着信に呆れつつ、高原先生が尋ねてきた。
「アホです、いや、劉生のアホです」
 私はついに観念して、携帯電話の電源を切りつつ答えた。
「すごいタイミングでかかって来たね。見られているみたい」
「全くです」
「実際、見ていたら止めたいと思うだろうしね、彼」
 先生は苦笑しながら、大人しくなった携帯電話を眺めた。今はもう、真っ暗な画面しか映さない。ここに今も劉生が電話を掛けようとしていると思うと、軽く笑えないホラーだった。しかしその尋常ならざる恐怖を、先生が知る由もない。
「知っているなら、話していいのかな。川崎のこと」
 先生は赤ペンを手に、再び教卓を小突きだした。哀れな教卓は、よく見ればペンの形に少しくぼんでいた。
「成瀬弟には、成瀬が遊びに来ても何も言うなって言われてたんだけどね。でも、私もそんなに川崎について詳しくないし。担任も持っていないから、生徒の事情もよく知らないし」
「……劉生、高原先生に口止めしていたんですか」
 否定とも肯定ともつかないような嘆息を、先生はもらした。
「けっこう、ぎょっとするような子だよ、あの子」
 まったくだ、と私は思った。近頃は「ぎょっとする」から「ぞっとする」にランクアップした。ぞっとしない女の代表格である私とはえらい違いだ。
「ま、もう隠したって仕方ないしね。川崎は去年、妊娠して退学したよ。産むつもりだったみたい」
「えっ」
 耳を叩く。ぱすんという音と痛みがある。残念、正常に作動しているらしい。
 高原先生が私を見て、「あ、これやべえ」という顔をした。たぶん私の顔の方も「やべえ」といった感じになっているのだろう。
「成瀬、もしかして知らなかった?」
 頷きもせず瞬きもせず、私は立ち尽くした。魂が抜け出て、ここにいる私はまるで抜け殻のようだった。
 飛び出た魂は、ふわふわと浮かびながら、高原先生の言葉を繰り返す。
 妊娠?
 産む?
 ――相手は?
 まさか。いやでもまさか劉生。いや劉生とは限らない。いやでもじゃあ他に、誰がいるっていうのだ。劉生。劉生。
 劉生。
 浮足立った私の魂は、いつまでたっても自分の体に戻らなかった。

 回し車がからからと回る。メダカの水槽で、モーターがぼこぼこと空気を送る。
 不意に吹き込んだ冷たい風に、私はくしゃみをひとつした。
 それでこの浮ついた現実が、地続きの現実であることを思い出した。


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