厄介の上塗り
<7-4>
結局私は、川崎礼美情報と引き換えと言うことでまだ小さなハムスターを二匹押し付けられた。
「増えすぎちゃうと飼えないから」
と高原先生が言った。
「貰い手が見つからないと、ハムスターじゃなくてラットになってもらうしかないね」
「はい?」
「同じげっ歯目だし、まあ似たようなデータが得られるでしょ」
「先生、ブラックジョークはやめてくださいよ」
「私が冗談を言う人間に見える?」
先生は眼鏡の奥の瞳を光らせ、私を窺い見た。本当に、先生は冗談が上手い。
久々の高原先生との会話は最初から最後まで、この薄茶色の毛玉が詰まっていた。
中からかさかさと音がする、小さな紙の箱を持って私は生物室を後にした。
たぶん、この時の私は地に足つかず、数センチほど浮いていた。歩いても足の感覚がなく、むしろ進むたびに地面と足との距離は離れていく。このまま空の上まで歩いていくのかと思われた。そのくせ心は鉛のように重かった。
とぼとぼと一人、静かな廊下を抜け、昇降口で靴をはきかえる。部活帰りの少女たちが横をすり抜け、私の鼻に若くて甘いにおいと、ほんの少しの汗くささを残した。長く黒い髪がなびき、後を引く。誰かに似ているようで、無意識に視線を追った。
その視線の先。
校門へと続くゆるやかな坂の手前に、夕日を逆光にして立つ男がいた。表情は見えないが、たぶん私をじっと見据えている。
私は彼を、よく知っている。
「ねーちゃん……」
劉生だった。聞こえないほど小さな声で呟き、劉生は大股で私に近寄ってくる。
驚かなかった。たぶん電話してきたときも、どこか近くで見ていたのだろう。でなければあんなタイミングで割って入るものか。今日この高校に来てから――いや、もっとその前から、監視されていたのかもしれない。
劉生は目の前に立つと、強引に私の腕を取った。危うくハムスター入りの紙箱を落としかけ、ひやりとする。
「ねーちゃん、帰ろう」
劉生は小さな命の危機にも眉一つ動かさず、私の腕を引っ張った。弟の冷徹さに寒気がする。私を掴む手も、彼の纏う空気も、どこか冷え冷えとしていた。
そのまま少し、私は劉生に引かれて歩いた。すれ違う高校の生徒たちが、時おり好奇の目を私たちに向ける。
「劉生、待って、待ってよ」
返事はなかった。振り向きもしない。劉生の態度が、私は気にくわなかった。
「どうしたの、怒ってるの?」
傍から見れば、尋ねる私の方が怒っているように見えただろう。
小さな道路に面した、まばらに木々の生える校門の前で私は足を止め、逆に劉生の腕を引っ張った。急に動かなくなった私に、劉生は訝しげに振り返る。
「怒ってないよ」
「じゃあ、なんでそんな不満そうな声なの」
劉生は目を伏せ、口を閉ざした。この上なく不機嫌そうだ。
「答えなよ」
風が流れ、私の短い髪がそよそよと揺れる。昼間は暑い暑いと言っていても、なんだかんだでもう秋だ。日が暮れはじめると、日中の熱が嘘のように引いていく。風は心地よいというよりも、冷たいくらいだ。
だから、握られた手の熱が、妙に生々しく感じた。
「……ねえ、答えなよ劉生。どうして川崎さんのこと、黙ってたの」
劉生は俯いたまま、私を見ようとはしない。
「どうして何も言わないの」
「ねーちゃんには関係ない」
「関係ないなんてこと、ない!」
私は声を荒げると、劉生の手を払った。劉生は驚きと不快さの混ざったような目で私を見下ろした。いきなりどうしたのだ、と言葉に出さずに言っている。
私は自分の手のひらを見つめた。
――いやなんだ、手をつなぐの。
ここにいると思い出す。劉生と手をつないでいた、私ではない別の少女の後ろ姿。二人が並んで、校門の影に消えて行く様子。二人を見かけても、声を掛けずに見送る、私。
「私が」
それをさみしい、と思っていた私。高校時代の幻影だ。私は短く目を瞑り、幻を振り払う。
「……私が悪かったの?」
「違う!」
一度離した手を、劉生は再び掴み返した。先ほどよりも強い力で、私の軟弱な骨がきしむ。
「ねーちゃんは悪くない。ねーちゃんが何か思う必要はない。悪くないんだ」
勢い込んでそう言いながら、劉生はもう一方の手を私に伸ばした。抱きしめられるのかと身構えたその手は、私の肩を強く握るだけにとどまった。ごく自然に「抱きしめられる」と想像した時点で、姉弟としてだいぶ間違っていることは知っている。
「俺は、ねーちゃんに責任を感じてほしくないから」
「でもそれじゃあ、なんで川崎さんは」
「アヤも、もちろん悪くない」
劉生は川崎さんをかばう。
やけにかばう。
心の隙から、高校時代の私が顔をのぞかせている。ひっこめ。お呼びじゃないんだ。
「劉生」
「誰も悪くない」
ため息のように、劉生は呟いた。
「…………悪いのは、全部俺だ」
――それじゃあさ。
無言で私を連行する劉生の肩を見つめつつ、私は心の中で呼びかけた。さっきから、現実に声を出して呼び止めても、足を止めようとしても、劉生は全く動じずに私を引きずり続けた。高校から駅までの道のりを、手をつないだまま二人黙々と歩く。
傍から見れば、恋人同士に思われるだろうかと言われれば、たぶん違う。どちらかと言えば犬と飼い主に近い。
私を引く劉生は無情で、体力値がほぼゼロの私を考慮しない早足だ。劉生に合せて歩くだけで、私の息が上がる。もっと体力値にパラメータを振り分けておくべきだった。幼小中高大、全てにおいてインドア派だった私に死角はない。
――劉生の、何が悪かったの。
ぜいぜいと呼吸をしながら、私は小動物入りの紙箱を小脇に抱え、鞄に手を入れた。すぐに指先に、四角い金属の角が触れる。携帯電話だ。やかましいと携帯を鞄に放り込んで、そのまますっかり忘れていた。
――劉生がなにをしたの。
電源の切れた携帯電話を取り出す。黒い画面を見ると、高原先生との会話を思い出した。
川崎さんの妊娠。退学。
いや、信じたくない。信じない。きっと他の理由がある。きっと。
携帯電話の電源を入れる。私は条件反射のように、着信の履歴を見た。おびただしい劉生の着信は、ここ最近見たホラー映画よりも身に迫る恐怖だった。やはり映像よりも実体験の方が怖い。
その恐怖の着信群の中に、ひとつ、違う番号が紛れ込んでいた。
私はこれぞ、救いの神であると思った。
○
これは、劉生と別れたのちに自室で聞いた留守電である。
「成瀬さん? 外村です。えーと…………もしかして、最近俺、避けられてますか? すみません、一度話がしたいです。連絡ください」
外村君は聡い男だ。
私は布団の上にごろりと横になると、そんな遠慮がちな外村君に対して、実に無神経なメールを送った。
要約すると以下のようになる。
『それはさておき、外村君に聞きたいことがあります』
送ってから三十秒もたたずに返信が来た。神速だ。現状打破のための救いの神は、メールの返信さえ神の速度を持っていた。
『聞きたいことってなんですか?』
『川崎さんのことについて』
次は少し長かった。
長すぎて、私は布団の上でいつの間にか眠りについていた。よって、メールを見たのは翌日の朝だった。ごめん。
『いいですよ。
今度、俺とデートしてくれるなら、俺の知っていることを教えてあげます』
なかなか癖のある神だったようである。