いつも変わらぬ日は過ぎて


<8-1>

 日も暮れかけると、開け放したベランダの窓から涼しい風が吹き込む。日暮れは少し早くなっただろうか。藍色の滲み出した空には、気の早いトンボが飛んでいた。代わりに消えゆく蝉は、ばたばたとベランダに落ちて、断末魔の鳴き声を上げている。
 否が応でも感じさせる晩夏の風情の中、私はなにをしているかといえば、四季折々、変わらず引きこもっているのである。
 バイトには、行きたくない。
 高校生たちは学校が始まり、頼りは暇な大学生ばかり。そんな店長の必死の願いも無下にして、私はシフトにもほとんど入らず、だらりと溶けるような日々を過ごしていた。
 働きたくないでござる。その理由はもちろん、先日の一件だ。吹けば飛ぶような軽い男からの、思わぬ告白に困惑しているのである。思い返すたび、私は枕を抱きしめてのた打ち回り、うー、あー、と珍獣のような声を上げるのだ。
 日々こんな調子ではいかん、他のことを考えよう。と決意をすれば、今度は川崎さんのことが思い当たる。いじめ、妊娠、退学。彼女の歩んだ道を思うと、それはそれでのた打ち回る。考えるから駄目なのだ。こんなときはがむしゃらに働こう。と思い立っても、それはつまりバイトということで、働きたくないでござる。
 さて、こんな時でも生理現象は起こるもので、悶々を抱えたまま私はトイレに立った。
 そして戻ってきたとき、ハルちゃんがいた。どこからともなく現れて、笑顔で立っていた。ベランダの窓は開けっぱなしだ。私の顔を涼風が撫でる。
「お姉さんに依頼です」
「うん。……うん?」
「とある男の素性を調べてほしいのです。とにかくまずは、現場に行きましょう」
 ものの見事に、悶々は吹き飛んだ。代わりに困惑が私の頭を占める。
 ハルちゃんが唐突に現れるのはいつものことだ。それはまあいい。冷静に考えて、何ひとつ良くはないのだが、今さらそこを指摘してもむなしいだけだ。
「……依頼?」
「そうです。お姉さんにしか頼めないことです。さあ行きましょう。まずは行きましょう」
 ハルちゃんは私の手を取り、有無を言わせずに引っ張る。外へ連れ出そうと言うのだろうが、彼女が引っ張る先はベランダだ。玄関から出ると言う発想はないのだろうか。
 などといらないことを考えている場合ではない。このままでは私はにこやかに拉致されてしまう。
「いやいや、まてまてまて!」
「なんですか? 早くしないと、相手を見失うかもしれません」
「相手ってなに? 私に何をさせるつもり?」
「とある男の背後を、ちょっと追いかけて素性を調べていただくだけですよ。なに、難しいことじゃありません。後をつけるだけなら、お姉さん並みにちょろい相手ですよ!」
「なんで私がそんなこと―――――誰並みだって?」
「相手の男はですねえ、お姉さんも興味持ってくれると思いますよ」
 ハルちゃんは私の疑惑に満ち満ちた表情も気にもかけず、歌うように言った。
「落居雛の正体につながるかもしれない相手ですもん。気になりますよね?」
「……まだ調べてたんだ」
 私は半ば感心して言った。ハルちゃんのあまりに胡乱な報告以来、久しぶりに落居さんの名を聞いた。彼女本人とも、顔を合わせることはもちろん、アドレス交換したメールさえ一通もやりとりしていない。たぶん彼女は私に興味がないのだろうし、私もあまり関わりたくない相手だから、当たり前といえば当たり前のことだ。
「当然です。だって、劉生さんに近づく女ですから。大腸菌の数まで調べ上げて、血祭りに上げる所存ですよ」
「いや、いやいやいや」
 なんだか恐ろしいことの片棒を担がされようとしているらしい。
「私は、興味ないよ。……落居さんの正体がなんだって、関係ないし」
 劉生のことは、私とは関係ない。言いかけた言葉を噛み殺し、私はハルちゃんから目を逸らした。視線は行き場なく、間もなく夜に変わろうとする空を見る。
「そうですか?」
 視界の隅で、ハルちゃんが小首を傾げるのがわかった。表情はいつもの、美少女然とした笑顔だった。緩く笑む口元から、彼女の感情は読み取れない。
「気になっているんじゃないですか? そうでもなければ、どうして最近、川崎礼美のことを調べ回っていたんです?」
「……なに」
「あの女の正体を探っているんでしょう?」
 私ははっとして、ハルちゃんを見つめた。彼女の笑みは崩れない。
 ハルちゃんが、どうして私の行動を知っているかなどはどうでもいい。さっき本人が言った通り、たぶん、ハルちゃんにとって私の動向を調べるなんてちょろいものなのだ。
 問題は、そこじゃない。
 落居さんと川崎さんを繋ぐような、ハルちゃんの口ぶりに、私は目を剥く。
「ハルちゃんは――――落居さんが、川崎さんだと思っているの?」
「さあ」
 ハルちゃんが、私の手を握り直して、私の心情とは裏腹な穏やかさで言った。そう言えば、まだ彼女に手を取られたままだった。
「それを調べるために、これから行くんですよ。どうです? ちょっとは興味出ましたか?」
 私は唾を飲み、束の間息を止めた。それから、長く、細く息を吐き出す。
 外はすっかり夜になっていた。蝉がまた一匹、ベランダに落ちた。

 ○

 ハルちゃんのこの世で最も嫌いな動物は犬らしい。
 ストーカーするのに邪魔だからだ。特に番犬の類は、言い訳が聞かない分のんきな人間より厄介らしい。
 ハルちゃんがこの世で最も嫌いな虫は死にかけの蝉だそうだ。
 道を歩いていると、不意をついてばちばちと暴れ出すからだ。死んでいると思って油断をしていると、突然暴れ出す蝉のせいで相手に気付かれ、今回の尾行に失敗したらしい。

 というわけで、私は今、夜道で待ち伏せをしているのである。
 どうしてこうなった。ハルちゃんの巧みな話術に負けたのだ。
「あたしはもう、相手に警戒されて迂闊なことができないんです。だから、お姉さんに男の尾行をお願いしますね。家まで突き止めていただければ、あとはあたしが家族構成からパソコンの秘蔵フォルダまで、すべて調べ上げて見せますよ」
 発言が物騒である。よくもまあ、こんな危険人物を世間が放置するものだ。ハルちゃんのこれまでの所業をすべて警察に訴えたら、塀の中でしばらく寒い夜を過ごすことになるのではないだろうか。
 そんな事を婉曲に本人に伝えると、ハルちゃんは、夜でも輝く笑顔で言った。
「身内に法曹関係の人がいるって、便利ですよね」
 犯罪者に法律が味方するとは。世の中とは理不尽にできている。
 駅前の大通りで二人、立ち話をしている振りをして、すでに三十分が過ぎようとしていた。居酒屋が活気よく客引きをする騒がしい夜の駅通りは、犯罪の相談する私たちにも気を留める余裕はないようだ。ハルちゃんは堂々としたもので、きわどいことを人目もはばからずに言うものだから、私は気が気ではなかった。
 ハルちゃんは話している間も油断なく周囲を見回し、目当ての姿を探していた。帰宅ラッシュを迎えた駅前に人通りは多く、電車が来るたび駅舎から人が溢れ出した。誰も彼もスーツを着たサラリーマンだ。あの中に、目当ての男というのもいるのだろう。
「どういう人なの? その、調べたい男っていうのは」
「普通のサラリーマンですよ、たぶん」
 ハルちゃんが目を細くし、駅を睨みながら答えた。
「ただ、あの女との唯一の接点であることは確かです。このひと月の間、あの女が劉生さんを追いかける以外で家から出たのは、その男と会うときだけでした。仕事もしていないみたいでしたし、一人暮らしで、他に知っている人間もいそうにありませんでした」
「へえ」
 ひと月、誰とも会わない。引きこもりの身に染みた私にはありえない話ではないが、一般的には異常なのだろう。
「二人の様子は遠くから窺っていましたが、あんまり仲が良い相手ではないみたいですね。それで、男の方を調べていたら見つかっちゃって……不覚です」
 悔しげにうなだれ、ハルちゃんは息を吐いた。私は横目で、その様子を窺う。
 ちょろいと言い放ちながら、そんな相手に見つかるなんて、さてはハルちゃんの実力もたいしたことはないな。プロストーカーの名が泣くぜ。などと私が、何度となく部屋に侵入されたことも棚に上げて思ってしまうのも無理はないはずだ。
「返す言葉もありません……」
 ハルちゃんは神妙に言った。私は口元を手で押さえた。
「声に出てた?」
「いえいえ、気にしないでください。あ、それとそろそろ、お部屋の掃除をした方がいいですよ。ごみ箱の裏に、ゴキブリの卵がありましたので」
 私は絶句した。彼女には逆らうまい。
「なんにせよ、今のところ手がかりはその男なんです。あの女、弱みを見つけたら二度と劉生さんに近づけさせないようにしますよ。ストーカーは二人もいらないんです」
 一人なら必要なのだろうか。常識の世界に生きる私にはわからないことである。
「あたしが真の劉生さんのストーカーだということを見せつけてやりますよ。あの女、泣きながら自分のしたことを悔いればいいんです」
「……あんまり物騒なことはしたらだめだよ」
「えっ、なんでです」
「えっ」
 ハルちゃんは虚をつかれたような表情で、駅から私に視線を移した。曇りなき瞳が私を映す。
「だって、物騒なこと以外、なにをするつもりなんです?」
 そしてこの発言である。少しは瞳を曇らせ、自分の行動を認識するべきではなかろうか。
「なにを、って」
「お姉さん、落居雛を知ってどうしたかったんですか」
 私は口を開きかけ、言葉が出ないことに気が付いた。
 どう、という部分がまるで抜け落ちているのだ。口からは、言葉の代わりに息がもれる。空虚な呼気だった。
 また電車がやって来て、駅舎から人が溢れ出す。ハルちゃんはすぐに私から目を逸らし、足早に過ぎるサラリーマンたちを睨んだ。
 その間も、私は空虚だった。瞬きを繰り返し、突如認識した思考の穴に困惑する。
 しかし、それもたぶん、長い時間ではなかった。ハルちゃんに肩を叩かれ、私ははっと我に返る。
「お姉さん、いました、いましたよ! あれです、あの男!」
 ハルちゃんが指差すのは、駅舎から出てくる一人の男だった。灰色のスーツにネクタイを緩め、どことなく疲れた顔をしている。年は三十前半と言ったところだろうか。人々の間にいれば埋もれてしまうような、意外すぎるほど平凡な男だった。
「さあ追ってください! ここからは別行動ですよ!」
 そう言って、ハルちゃんは私の背中を押した。
 私たちの前を、その男が通り過ぎていく。



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