いつも変わらぬ日は過ぎて


<8-2>

 男の背中を見送りながら、私はまごまごしていた。いざというときに弱いのだ。尾行と言っても、どうすればいいのかわからない。
 一歩踏み出す勇気が持てず、立ち尽くす私を勇気づけるように、ハルちゃんが頷いて見せた。
「大丈夫ですよ。いつも劉生さんにされていることをすればいいんです」
 うーん、参考にしたくない。
「あたしが一緒に行って、尾行術のレクチャーをして差し上げたいんですけどね。最近不調ですし、下手に見つかったら大変ですから」
 ハルちゃんは確認するように男の背を見やった。私たちの存在には全く気が付いていないようで、男は駅通りの繁華街とは反対方向、人の少ない住宅街に向かっていた。このまま家に帰るつもりらしい。
 不調と言うのは、例の尾行失敗の件だろう。彼女なりに、かなり気にしているらしい。
「それに、あたしもあたしですることありますし。これからは別行動ですよ」
「別行動って?」
「お姉さんが男を追っている間、あたしは劉生さんを追います」
「劉生を追ってどうするの」
「ライフワークですよ」
 それを別行動と呼んでいいのだろうか。
「さあ、そろそろ行かないと見失いますよ。お姉さん、無事を祈っています!」
 ハルちゃんに後押しされ、私はついに足を踏み出した。
 あとはなるようになれ、だ。
 劉生より先に、ストーカーとして逮捕されたら、笑えない笑い話になるだろう。




 ○




 たとえば川崎さんが、顔を変え、性格を変え、名前さえ変えて再び劉生の前に現れる。
 それがあり得ないことではない、と私は思っているのだろう。先生や外村君から聞いた、川崎さんのその後の人生は想像するに余りある。
 恨まれても仕方ないのだ。それは、劉生と彼女が別れたときから知っていた。わかっていて、私はなぜ、川崎さんについて調べていたのだろう。
 人の不幸を嗤うような、高尚な趣味は持ち合わせていないつもりだ。自分のしでかしたことで悦に浸るような、謙虚な考えもない。ならば。
 会って、謝りたい?
 いまさら?

 ということを考えながら歩いていたら、それはもちろん注意力散漫にもなるものである。

 男を追って、私は駅から閑静な住宅街へと入っていった。
 住宅街にはぽつぽつと街灯がともり、夜道を曖昧に照らしている。たまに学生らしい連中が自転車で通り抜ける他には、人通りもなかった。
 夜道には、私たち二人しかいない。足音が暗闇に響き、どこへともなく消えていく。男の足取りは早い。私は見失わないように、男の背中を追いかけるのが精いっぱいだ。彼の灰色のスーツだけを見つめ、しかし頭はぼやぼやと、無為な思索に明け暮れる。そうこうしている内に、男の歩調はさらに早くなる。追いかける私もまた、早くなるのは必然だ。ちらちらと、様子を窺うように男が数度、私を振り返る。早足の男を、私は無心に追う。
 夜道の謎の競争に、もはや私はなんの疑問も挟まなかった。
 男を追わねばならぬ。それが、「秘密裏に」「こっそりと」遂行すべき行為だったとことは、このときの私は忘れていた。
 川崎さんに意識を奪われ、男を追いかける以外の目的を忘れていた私は、ついに男に追いつき、追い抜いてしまったのだ。
 あ、と思ったときにはすでに、男の前に立っていた。何たる失策であることか。慌てて立ち止まり、私は男に振り返る。
 私に行く道を塞がれたためか、男は弱々しい電灯の下で立ち尽くしていた。そこで私を凝視する表情たるや、まるで夜道でストーカーに出くわしたかのようである。失礼な。
 男は上から下までまんべんなく見回し、私の存在を確認する。その間、私はどんな顔をすればいいのかわからず、とりあえず笑ってみた。
 私の笑顔を見た途端、「ぎゃっ」と男が悲鳴を上げて逃げ出した。
 くるりと背を向け、一目散に男は走る。夜の静かな住宅街に、絹を裂くような男の甲高い悲鳴がこだまする。
 私は唖然とする暇もなく、反射的に男を追いかけた。なぜか。逃げるものを追いかけるのは、きっと人間が人間である以前から刻まれてきた、遺伝子の記憶なのだ。そうとでも思わないとやっていられない。追いかけながらも、私は自分がなぜこんなことをしているのか、さっぱりわからなかったからだ。
「待って! 待ってください!」
「変態! ストーカー!」
「違うんです、違うんです!」
「助けて!」
「待ってくださいってば!」
 T字の曲がり角で、私は逃げる男に追いついた。息を切らせて男の腕を掴むと、彼は必死の形相で腕を振りほどこうとし――その拍子に足をもつれさせたらしい。前のめりに体が傾き、私を巻き込んで転んだ。冷たいコンクリートに、二人の体が叩きつけられる。一瞬、世界が暗転した。

 顔を上げて我に帰れば、私はろくに痛みもなく生きている。体の下には地面ではない柔らかい感触があった。
 恐る恐る確認すると、それは先ほどの男であった。私はどうやら、男の上に馬乗りになっているらしい。おかげで怪我がなかったのだと、安堵する余裕はない。
 男が驚愕の瞳を私に向けた。
「ぎゃー! 犯される!」
「はあ!?」
「なにをする気ですか!? 僕に乱暴する気でしょう!?」
 エロ同人みたいに!?
「誤解です! 最低の誤解です!」
 必死で否定したものの、男の誤解は解けるはずもない。見ず知らずの女に夜道に転がされ、跨がれる。これに恐怖を覚えない人間がいるだろうか。
「なんなんですか、あんた、この前から!」
 この前? ああ、ハルちゃんのことか。暗がりのせいか、私とハルちゃんを勘違いしているらしい。
「僕になんの恨みがあるんですか! 今度こそ警察に訴えますよ!」
「違います。話を聞いてください! 別人です!」
 半泣きの男に顔を近づけて、私は自分を指差した。男はぎょっとしたように体を強張らせるが、それでも確かめるように私の顔を見た。
「……別人?」
「そうです。あの、私はただ落居さんのことが聞きたかっただけで」
「落居?」
 男は眉を寄せ、疑惑の瞳を私に向けた。とりあえずは、話を聞いてくれるつもりなのだろうか。固く強張ったまま、今にも悲鳴を上げそうな口を強く結んでいる。
「落居雛、知っているでしょう?」
 私が尋ねると、男はますます顔をしかめた。
「おちいひな? なんのことですか?」
「……えっ」
 夜道に風が吹き抜ける。先ほどまでの興奮は、水を浴びたように冷めた。
 私は男の顔を見た。品のある灰色のスーツに、意外と整ってはいるが、平凡の域を抜けきらない容貌。困惑をそのまま表情にして、男もまた私を見る。顔を見合わせたまま、短い沈黙が二人の間に下りた。
 先に口を開いたのは私だった。
「……あなた、誰ですか」
「それは僕のセリフだと思います」
 ごもっともです。

 ○

 それからどうした。
 私はとめどなく湧き上がるハルちゃんへの恨みつらみを噛み殺しながら、見ず知らずの男との逃避行である。
 閑静な住宅街で、男の悲鳴など事件もいいところである。悲鳴を聞きつけ次第に人々が集まってくる気配を感じ、私は男と一緒になって逃げだした。私はさておき、男が逃げる必要はあるのだろうか。そう思うのだが、男は私のあとを追うようについてくる。
「なんであなたも逃げるんですか!?」
「えっ、な、なんとなく」
 男は指摘されて初めて気が付いたというような顔をした。走るのが辛そうに喘ぎながら、首を傾げる。
 この流されやすさ。悪意のなさ。私は親近感を覚えずにはいられない。厄介な人にとりつかれ、面倒事に巻き込まれるタイプだ。現状、男にとってはその厄介な人が私であるということは棚の遙か上方、見えない場所まで持ち上げておく。目に入りさえしなければどうということはないのだ。
 私は男と、住宅街を抜けた少し人通りの多い道まで出ると、そこで握手を交わした。
「お疲れ様でした」
 男は息を切らせながら言った。いったい何に対するねぎらいなのか知らないが、疲れていることは確かだ。
「いや、まったくです。なんだか大変な日でした」
「まあ、原因はあなたなんですけどね」
 はは、と笑いながら、男は悪意なく言った。久しぶりの運動でいい汗を流した、と言いたげな表情である。私は犯罪者として通報される瀬戸際で、肝をつぶしたというのに、人の気も知らないで。
 軽く息を整えると、夜風が吹き抜けた。汗ばんだ体の熱を奪い、どこへともなく流れていく。男も気を落ち着けた様子で、何気なく時計を見ていた。
「ああ、もういい時間ですね。そろそろ、僕は帰りますね」
 それから思い出したように付け加える。
「僕のあと、つけたりしませんよね?」
「しませんよ。ストーカーじゃあるまいし」
 一度棚に上げたら下さない。これにはさすがの男も苦笑いである。「人違いだったみたいですしね」と言って、人の良さそうな顔をくしゃりと崩した。
「それじゃ、さようなら。もう会うことはないでしょうけど、お元気で」
 男は軽く手を振って、逃げて来た道をとろとろとした足取りで戻っていった。
 私は消えていく男の背を見ながら、一夜の騒動の、思いがけない安穏とした結末に呆けていた。
 ストーカー行為が見つかったというのに、警察に通報されず、罵られることすらなく、握手を交わして別れたのだ。おまけに男とはもう二度と会うことがなく、私の記憶さえ消せば、ストーカーの不名誉さえなかったことにできる。
 考えてみれば、なんという幸運であることか。やはり神は日ごろの行いを見ているのだ。と私は天を仰ぎ見た。安心が体中に巡り、私は深いため息を吐いた。

 もちろん、全開のフラグである。



inserted by FC2 system