キャットファイトに勝者なし


<9-1>

 劉生のストーカーも、外村君の含みのある言動も今に始まったことではないけれど、最近とみに悪化している気がする。
 家に帰れば劉生がいて、バイトに逃げれば外村君がいて、隙あらば接触を試みようとしてくる。イケメン二人に囲まれ、ときめきを強要するようなシチュエーションではあるものの、一人は弟で一人は貞操観念に問題がある。いい加減、私のストレスがマッハだ。

 と嘆いていた日々に、ようやく光明差す。
 大学生を堕落の道に誘う、長い長い夏休みが明ける。
 重い腰を持ち上げ、大学に向かう日々が再び始まるのだ。

 ○

 一方、休みが明けても堕落の道から返ってこない者もいる。そうです、藤野です。
 彼女にとっては堕落の道こそ正道で、休みが明けたら立ち返るべき学業への道はない。秋も深まる十月半ば。肌寒ささえ感じる時期になってさえ、未だに講義に姿を見せない藤野を心配して、彼女の家を訪れた時のことだ。
「めんどい」
 布団の中で丸まったまま、発した言葉は実にわかりやすかった。端的かつ要点を掴んでいる。
 南東向きの窓から日が差し込む。そろそろ昼にもさしかかろうかと言う時間だが、訪問客である私に、藤野は茶の一つも出そうとはしない。だいたい人が訪ねてきているというのに、部屋のありさまは私とどっこいといった惨状だ。床にはところ構わず服が散乱し、下着の類も干したまま。発酵するような蒸した空気からは、何日も窓を開けていないことがうかがえた。
 まったくこんなひどい部屋。自室を彷彿とさせてなんだか落ち着く。
「めんどいじゃない。留年するよ」
 私は布団の上から藤野を揺さぶった。ほんのりとした温もりの中に、ほんのりと湿気を感じる。何日こうして引きこもっていたのだろうか。私は呆れと嫌がらせを半々に、藤野の潜む布団にのしかかった。
「留年、しゃーない。留年もしゃーない」
「なにがしゃーないだ」
「そういうこともあるって」
 藤野の声は心ここにあらずと言った様子だった。ろくろく私の言葉も聞かずに返事をしているらしい。抑え込んだ布団の中からはもぞもぞと藤野のうごめく気配はする。いったい何をしていることやら。
「そういうことがあったら、後から大変になるんだよ。とにかく起きろ、藤野」
「やーだー」
 押しても引いても問答を繰り返しても、藤野は布団の中でむずがるだけで、顔を見せようともしない。
 これでは埒が明かないと、私は藤野の布団をはぎ取った。敷布団の上で丸まっていた藤野は、ぎょっとしたように硬直する。手には携帯ゲーム機が握られていた。
「ほう」
「いやだってほらフレンドとボス戦やってたら成瀬が」
「ほうほう」
「戦闘の途中でいなくなるわけ行かないしさ、ほら、私ヒーラーだし」
「ふーん」
 なにも私は、唐突に藤野の部屋を訪れたわけではない。事前にアポイントを取ったのち、許可を得て部屋に上がり込んでいるのだ。それがどうしてこうなった。
 黙って腕を組み、私は藤野を見下ろしていた。薄ら笑いを浮かべていたかもしれないが、あまり自覚はない。ただ、言葉を失くして震える藤野が目に映った。
 藤野はしばらく、恐々と私を窺いつつもゲーム機を眺めていたが、少ししてそれを放り出した。そして私を見上げる。
 そのまま、長い沈黙が流れた。私は口を開かなかったし、藤野は言い訳の言葉を見つけられなかったようだ。
 実に冷ややかで張りつめた空気に、耐え切れなかったのは藤野の方だ。
「藤野のばかっ!」
 藤野が私に枕を投げつつ暴言を吐いた。
「ブラコン! がり勉! ばかばかばか!」
「は、はあ!?」
「ちょっとキリのいいところまでゲームしてただけじゃん、怒るほどのことじゃないじゃん! いい? 子供の教育に必要なのは飴と鞭で」
「いい大人が何を言う!」
 至極真っ当な言葉を返すと、藤野は膨れた。その頬の膨らみ、おおよそ顔の二倍くらい。
「なにさ、私にも優しくしてよ、劉生くんくらいにはさあ!」
「ぶ、ブラコンじゃないわい。劉生にだって優しくないし!」
 会話の流れが見えないまま、ほとんど反射的に私は否定した。いや、おそらくそもそもの会話の流れ自体、ない。あるのは藤野のやけっぱちだけだ。
「嘘つけ! ブラコンとシスコンでちゅっちゅしてるんでしょう! 勉強だって教えてレポートだって書いてあげてるんでしょう。私にもそのくらいしてよ!」
「してない! しようとしたらベランダから叩き落としてるから!」
「えっなにそれどん引き」
「えっ」
 藤野はわずかに身を引き、表情を消した。熱が一瞬で冷めたように、非難の視線を私に向ける。
「ベランダから叩き落とすとか。私だって裕介にそんなことしないよ。小学生の時に一回やって、親にめちゃくちゃ怒られたもん」
「やってんじゃん」
「あの時は、裕介が私のセーブデータ消したから仕方ない。でも成瀬は、それくらいのことで」
「それくらいのことって」
 藤野の自分棚上げ術は、見上げるものがある。セーブデータで叩き落とされた裕介くんには同情を禁じ得なかった。
「それくらいのことでしょ。犯罪してるわけでもないのに劉生くんに鬼の所業」
「犯罪じゃなくても倫理的に駄目なんだよ。そりゃ、叩き落とすのはどうかと思うけど、でも」
「りんりぃ? たかだかその程度のこと!」
「たかだかって、実際にその状況になったら言ってられないからね!」
「くそまじめ!」
「まじめとかそういう問題じゃない、だって――」
 だって。
 言葉尻を食い合うような言い争いの中で、私は冷静さを欠いていた。勢いと感情に押されて、私は余計な口を開く。ほとんど同じタイミングで、藤野もまた言葉を吐きだした。
「だって、劉生にキスされたら」
「代わりにレポート書くくらいで」
 私と藤野は顔を見合わせた。瞬きを二度、三度してから、私が先に目を逸らす。先ほどまでの舌戦は存在しなかったかのように、空虚な沈黙が流れた。
「……キス?」
 沈黙が重く、ひどい喉の渇きを覚えた頃、藤野が呟いた。訝しげな視線を迷うように彷徨わせてから、少し伏せる。
「…………ちゅっちゅ?」
 自分で言ったくせに、思いもかけない言葉のように藤野は呟いた。
 今は私自身を、奈落の底へ叩き落としたい。


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