キャットファイトに勝者なし


<9-2>

 ため息交じりに仕事をしていたらしい。
「隆子ちゃん、今日はずいぶん落ち込んでるみたいだね」
 私にコーヒーを給仕され、馴れ馴れしく話しかけてくるのは、とある常連客の男だった。
 グレーのスーツに人の良さそうな顔をしたこの男。実はハルちゃんの奸計にはめられた私に、ストーカーまがいの行為をされたという経歴を持つ。
 それがなんの因果か知らないが、いつのまにやら常連客として毎週末、コーヒーを飲みに来るという事態に至っていた。運命とは不思議なものである。
 その彼の名を、相模さんと言う。
「恋の悩み? そういや今日は、彼がいないね」
 間もなく昼時に差し掛かる時間帯。店内があまり混み合っていないのを確認してから、相模さんはにやにやといやらしい笑みを浮かべて言った。
「もてそうだもんね、彼。彼のこと狙っている子多そうだし、隆子ちゃん、あんまり変なことして嫌われたりしたら駄目だよ」
「いやいやいや」
 下世話な視線を投げかける相模さんに、私は全力で首を横に振った。たいそうな誤解である。だいたい変なこととはなんだ。私がなにをすると言うのだ。ストーカーですね、わかります。
「あの、私は別に外村君と付き合っているわけではないですからね」
「あれー、僕は別に光一君だとは一言も言ってないけど」
 砂糖を落としつつにやける相模さんは、今までで一番殴りたくなる表情をしていた。
「付き合っちゃえばいいのに。だって光一君、どう考えても隆子ちゃんのこと好きでしょう? バイト中もさりげなく気を使ってるし、先に上がったときは店で待ってるし。イケメンだし、見た目は真面目そうだし、一途だし。悪いところないでしょう?」
 見た目しか真面目そうでない、というのが悪いところなのだ。しかし相模さんは、ものの見事に外村君の外面に騙されてくれている。それもこれも、すべて外村君の策略だ。
 外村君は自信の発言通り、実に周到に根回しを開始した。素直で善良なるこのコーヒー屋の従業員は外村君にあることないこと吹き込まれ、すっかり私と外村君の仲を誤解している。それどころか誤解の余波は常連客にまで及び、現在の相模さんのような有様だ。
 こんな状況、劉生に知られたらと思うと恐ろしい。大学生活が再開されてから、劉生のストーカー攻勢が緩んでいるのが唯一の救いだろうか。夜中に勝手に部屋に忍び込まれることがないだけでも、神に感謝しなければなるまい。むしろ、感謝のハードルが低いことを神は私に感謝するべきだ。
「隆子ちゃんだって光一君のこと、悪く思ってはいないでしょう?」
 無自覚に外村君の手先と化した相模さんが、身を乗り出して私に言った。
「なんでそんなに、付き合うのを否定するかな。もしかして、他に気になる人でもいるの」
「……いませんよ」
「ふうん?」
 相模さんは肩をすくめつつ、探るような視線を私に投げかけた。私なにともなしに苦々しさを覚え、しかめ面で目を逸らした。視線は行き場を失い、あてもなく店内をさまよう。
「だいたい、恋の悩みじゃないです。私、友達と喧嘩して」
 誤魔化すように私は言った。言ってから、この話題もあまり好ましくないのだと気が付いた。
 口にすると、先日の喧嘩とも言えない喧嘩が思い出される。あの日、私は無言で藤野宅から逃げ帰った。以来、藤野とは顔を合わせていない。藤野は相変わらず大学に来てはいないようだし、私から訪ねもしないのだから、当然と言えよう。
 会えない期間が長引くほど、気まずさが心の堀を深めていく。今や私は難攻不落の城である。もう一度会おうと思っても足が藤野のアパートは向かず。一方薄情な藤野からの連絡もない。高校時代、こうして友人と呼べるものをことごとく失ったのだと思うと、なおさら心が重くなった。
「友達と喧嘩? 原因は?」
「原因は……」
 劉生のことだ。特に最近は、劉生について過敏になっていた気がする。落居さんだとか、高校の頃のことだとか、劉生にまつわることを考えていたせいだろう。
「別のことで悩んでいて、それで――――別のことで悩んでいたはずなんですけどね、今は喧嘩のことばっかりで」
 私は苦笑交じりに首を振った。劉生が大学に入って来てからというもの、とにかくめまぐるしいのだ。悩むことも考えることも多すぎて、それを綺麗に処理する頭もない。
「目の前のことしか考えられなくなっているんです。現金なもんですね」
 いつの間にか俯いて、私は自分の足元を見ていた。ため息は際限なく生産され、私を中心に半径一メートルの空気を重たくした。
 現金な私の思考が、今までの悩みを嘲笑っているような気がする。そんなもの、取るに足りないものなのだと。落居さんも、川崎さんも、人の恋路を邪魔したことなど、私にとってほんの些細なことに過ぎず、悩んで憂欝な振りをして、悦に浸っていたのだろうか。
「――いいんじゃない?」
 穏やかな声色に、私は顔を上げた。先ほどとは打って変わって、大人びた表情を浮かべる相模さんがいた。照れるほどに私を見つめ、やわらかく微笑んでいる。
「とりあえずは、目の前のことを悩めばいいんだよ。なんでもかんでも、なんて誰もできないんだから。本当に大切なことなら、そのうちまた目の前に来る時があるから、それはそのとき考えればいい」
「……そういうもんですかねえ」
「僕と妻のときはね、そういうもんだったよ。年も離れていたし、先に子供ができたし、家柄とか世間体とかあったけど、全部一度に解決なんてできなかった」
 この相模さん、のんびりとした外観に似合わず、結婚の際に大波乱があったらしいということを、私は幾度かの来店を経て聞いていた。聞きたくて聞いたわけではない。相模さん自身が、奥さんへの愛情高じて勝手に話し出すのだ。曰く、年端の行かない少女を懐妊させて結婚にまで持ち込んだのだという。その話を聞いたときは、バイト一同戦慄したものだ。
 ちなみに現在、相模さんは関西から単身赴任。奥さんは付いて来てくれなかったそうだ。相模さんの奥さんは関東の出身らしいが、身重のためもあってか関西を離れたがらないらしい。
 そのことを指摘すると相模さんは泣く。ゆえにたびたび指摘され、たびたび塩味の効いたコーヒーを飲んでいる。それでも店に通う相模さんは、被虐趣味があるのだろう。さもなければこんな安いコーヒー屋に、いかにも金持ち然として、事実金を持てあます相模さんが通う理由がわからない。自分の店をこう言うのも何だが、別にここのコーヒーは格別美味しいわけではない。
「隆子ちゃんは真面目な性格だし、考えすぎちゃうのはわかるよ。でもね、考えたってなんでもできるわけじゃない。悩んで解決できることなんて、本当にほんの少しなんだ」
 そう言って相模さんはゆっくりと、たいして美味くもないコーヒーを啜った。
「問題が向こうからやってくるまでは、目の前のことに集中すればいいんだよ」
 次第に店内に人が入り、助けを求める店長の声が聞こえてくる。軽食を求めて、昼下がりのピーク帯がやってくるのだ。私は相模さんに一礼し、店長の助っ人に急いだ。

 当然のごとく、どう考えてもフラグである。相模さんはよほど、フラグを立てるのがお好きなようだ。
 ほどなくして向こうからやってくる問題は、相模さんの余計なひと言が引き寄せたものだと、私は信じて疑わない。


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