キャットファイトに勝者なし


<9-3>

 厄介が厄介を引き連れてやってきた。

 バイトの遅番を終えて、すっかり暗い秋の夜。疲れた体でアパートまで戻ってみれば、なにやらどうも騒がしい。
 すでに人通りも途絶えた夜道。私の間借りするアパートを背景に、街灯の下で言い争いをする何者かの姿があった。夜中でも静寂の満ちない、閑静とは程遠い学生街ではあるものの、往来での騒動はいただけない。私は眉をひそめた。
 人のアパートの前で何事か。いったい誰がどんな話をしているのか、と目を凝らして見てみれば、まさかの知人であった。思わず声を上げる。
「ハルちゃん!?」
 あわてて駆け寄るが、しかし、ハルちゃんは私に振り向かない。対峙する誰かを相手に、叫んだ。
「劉生さんから手を引きなさい!」
「どうしてあなたにそんなこと言われないといけないの」
 ハルちゃんに応える声もまた、聞き覚えがある。街灯の薄明かりに影を落とした黒髪の美女は、落居さんだった。
 無意識に足が止まる。あまり会いたい人物ではない。
「迷惑だからです。劉生さん、嫌がっているじゃないですか」
「あなたに言われたくないわ」
 ごもっともです。ハルちゃんは熟練のブーメラン使いだ。
「ナルくんの迷惑を考えるなら、あなたが引いたらどうなの」
「その呼び方、やめてください」
 「ナルくん」の言葉に反応して、ハルちゃんは鋭く落居さんを制した。彼女らしからぬ低い声に、背後の私は震えるが、落居さんは口の端を曲げてみせる。
 そして、そのままちらりと私に目をやった。ハルちゃんの背後に隠れる私に、含みのある視線を向ける。ぎくりとした。
「どうして。私がナルくんをナルくんと呼んだらいけないの?」
「やめてください!」
「やめる理由がないわ。だって昔から、ナルくんはナルくんじゃない」
「劉生さんが嫌がるんですよ!」
 落居さんの声を遮るようにハルちゃんは叫んだ。背後から見る私には、彼女の表情はわからない。だけど落居さんの顔色から、ハルちゃんの怒りが見える気がした。
 驚いた様子で笑みを消す落居さんに、ハルちゃんは手を伸ばした。避ける間もなく、落居さんの襟首がハルちゃんの手に掴まれる。
「その呼び方――――川崎礼美じゃあるまいに!」
「……私が川崎礼美だったらなんだっていうのよ!」
 まっすぐにハルちゃんを睨み上げ、落居さんは言った。その瞬間、ハルちゃんは落居さんの襟を引き、空いている方の手を振り上げる。
「まっ」
 それを見て、反射的に声が上がった。
「待って! まて、まて!」
 金縛りが解けたように、私は足を踏み出して、二人の傍に駆け寄った。

 しかし時すでに遅し。
 落居さんはハルちゃんからの一撃を受け、片手で頬を押さえていた。だが、落居さんのもう一方の手が、今度はハルちゃんを狙う。
 張り手の応酬に、鈍い音が響く。「なにすんのよ!」「あんたこそ!」から始まる言葉にならない罵声も飛び交い、その有様は地獄の様相を呈していた。
 いい音のするビンタは実は痛くないらしい、という嘘か本当かわからない話を思い出しながら、私は背後からハルちゃんの肩を掴んだ。そのまま引っ張って二人を引きはがそうとするが、うっとうしそうに振り払われてしまう。
「お姉さんは下がっていてください」
 振り返ることなくそう言われて、私はぎょっとした。ハルちゃんは一度も私を見ていないはずなのに、どうしてわかった。ハイレベルストーカーのなせる業なのか。
「そうよ、下がっていなさい『お姉さん』」
 落居さんが敵意を隠さずに私を睨む。
「これは女の話し合いなのよ」
 叩き合いを話し合いとは言わない。
「悪いですけど、この女の言うとおりです。無関係なお姉さんは口出ししないで下さい」
 ハルちゃんもまた、気持ちの昂ぶりを抑えるように言う。女同士の戦いに、私は邪魔者だというのだろう。
 しかし待て。だが待て。
「わかったら消えなさい」
 落居さんの凄味に怯みかけるものの、私は下がらなかった。足を踏み出し、理不尽な排斥に抵抗する。
「……なによ」
「あ」
 絞り出すように声を出す。落居さんは訝しげに私を見た。
「あ?」
「アパートの前で、騒ぐなっ!」
 顔を上げてみれば、アパートのベランダから様子をうかがう、野次馬根性あふれる住人と目が合った。気まずさに会釈をすると、相手も軽く頭を下げる。それがなおさら居心地悪さに拍車をかけた。
 なにがどうしてこんな厄介な状況に陥っているのか。
 それは私が聞きたい。


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