いち


 目が覚めると、永田透子(ながたとおこ)は離れの布団の中にいることに気が付いた。何度か瞬きをしてから半身を起こす。広く開いた縁側からそそぐ光は朝のもので、涼風が吹きこんできた。風鈴が鳴り、透子の意識を覚醒させる。
「……夢?」
 透子はぽつりと呟いた。やけに現実味のある夢で、未だに足元がはっきりしない。しかし自分の姿を見れば、着物ではなくパジャマ姿だ。透子はおかっぱの頭を掻きながら、ぼんやりとした微睡の中で呟いた。
「小さい頃の夢かあ……って、もう七時!?」
 ふと目に入った枕元の目覚ましを、透子は慌てて掴んだ。朝の七時前。高校に行かなくては、と飛び起きたところで、透子は今が夏休みであることを思い出した。早起きして、逆に損をした気分だ。
「あーあ、夢見悪い――――ん?」
 目覚まし時計を手にしたまま、透子は違和感を覚えた。ちょうど時計があった枕元――その枕がおかしい。いつも見慣れたカバーが、逆さまになっているような。
「――――枕返し!」
 叫ぶようにそう言うと、透子は目覚ましを枕に投げつけた。きゃっ、と悲鳴のような声が聞こえたが、ほとんど気にはならなかった。
 まだ呆けていた思考を一気に跳ね除け、透子は勢いよく立ちあがった。そのまま、小さな離れを飛び出す。
「栄吉、えいきちい! 枕返しがまた出た!」

 ○

 山沿いに建てられた永田家は、土地だけは有り余っているため、いやに広い。平屋建ての母屋に、透子の部屋である離れ。離れと母屋を繋ぐ渡り廊下を挟んで、庭が二つ。さらにその周囲を雑木林が囲んでいた。
 透子は母屋に駆けつけると、家人がいるであろう居間を覗き込んだ。朝の早い永田邸のこと、すでに朝食の用意もしてあるはずだ。
 色あせた畳の上には、果たして人の姿があった。老いて枯れた和装の男が、ゆっくりと茶を啜っている。それは覗き込んだ透子を一瞥し、何事もなかったかのように湯呑をなでた。老人の前には、空になった食膳が並ぶ。
 透子は襖を開けた姿勢のまま立ち尽くした。誰かが茶を飲んでいる――だが、それが見知らぬ老人であるならば、大問題だ。
 老人は当たり前のように、ちゃぶ台に用意された沢庵をつまみ、がりがりと音を立てて食べる。何気なく老人が首を回すと、その後頭部が異様に大きいことに気が付いた。
「―――ぬらりひょん!」
 ついに耐え切れず、透子は声を上げた。ぬらりひょん、他人の家に勝手に上がる妖怪だ。どうしてこんなところに、と後ずさると、背中になにかが当たる。嫌な予感がする。
 恐る恐る振り返ると、そこには顔があった。透子の体ほどもある巨大な顔だ。顔の横から直接、申し訳程度に手足が付いていた。
 あまりにも巨大すぎて、それが男なのか女なのかさえ判別できなかった。少し潰れた団子鼻に、丸く見開いた目が付いていることだけを、透子はかろうじて認識できた。
 透子と顔は互いに互いを見つめ合い、須臾の沈黙ののち、顔が叫んだ。
「ぎゃあああああ!?」
 大きな口を広げ、心底驚いたように顔が悲鳴を上げた。その悲鳴に、透子の方が驚いた。
「きゃあああああ!?」
「ぎゃあああああ!」
 透子の悲鳴に顔が驚き、それがまた透子を驚かせ――。耳の痛くなるような悲鳴の中で、ぬらりひょんが一人、悠々と茶を啜っていた。

「朝っぱらからなんの騒ぎだ!」
 突如響いた低い威喝に、騒がしい朝は水を打ったように静まり返った。透子は悲鳴を飲み込み、声の方向に顔を向ける。
 廊下の奥から、居間に向かって大股で誰かが来る。近づいて来るにつれ、それが透子の良く知る壮年の男であることが分かった。
 豊かな白髪の下には、厳めしくも精悍な面立ち。やせ気味な体は、弱々しいと言うよりは、鋭くしなやかな印象を受ける。寝起きでパジャマの透子と違い、男は渋色の和装を正しく身にまとっている。
 男は居間の前で立ち止まると、険しい表情で透子と顔を等しく睨みつけた。透子と顔は揃って恐怖に固まった。日常での礼儀作法に厳しいこの男だ、朝にふさわしくない騒々しさに、相当腹を立てているだろう。
「五体面か。妖怪風情が、なんの用だ!」
 五体面――ご対面。脅かすだけの無害な妖怪だ。透子はようやく落ち着いて、巨大な顔が何者か認識することができた。
 一方の五体面は、男の一喝に文字通り飛び上がった。巨大な目がさらに見開かれ、恐怖の色を浮かべた。と思うと、不器用そうな手足に見合わぬ速さで、風のように逃げ去った。
 男は五対面が去ったあとの廊下で、腕を組んで透子をねめつけた。
「透子! お前も神社の家の娘なら、あれくらいで驚くな!」
「私!? むりむり、栄吉じゃあるまいし!」
 慌てて透子は否定する。
 目の前の男こそ、化け物神社と名高い、上森神社(かみもりじんじゃ)に仕える神主、永田栄吉である。御年六十二。すでに二人の娘は町の外へ嫁いで行き、現在は一人で神社の世話をしているのだ。
「はじめから無理だと言う態度がいかん。透子、お前もすでにこの永田家の娘。神社に出て心身を鍛えてみろ」
「やだよ! やることなんて雑用じゃない」
 冗談じゃない、と透子は首を振った。巫女装束の艶やかな外観とは裏腹に、神社の仕事は地味なものばかりだ。お守りやおみくじを渡すだけならまだましなもので、片田舎の神社では参拝客もろくになく、することはひたすら掃除、掃除、掃除!
「それに神社なんてもっと妖怪が出るじゃない! 神様もいないくせに、化物ばっかり!」
「――――透子!」
 栄吉の鋭い叱責に、透子は口をつぐんだ。彼の瞳には深い怒りが滲んでいる。騒がしさに対するいら立ちとは根本的に違うその怒りに、透子は口を引き結んだ。
 ――だって、本当のことじゃない。
 上森町、唯一の神社である上森神社。かつては町の人々の信仰も厚く、参拝客も途絶えない神社であったが、今は寂れて化け物の住処になってしまった。我が物顔で神社を妖怪たちが跋扈するため、栄吉は彼らの扱いに慣れきっている。が、神社を避ける透子は別だ。
「……私、行かないからね。夏休みなのに、なんで掃除なんて」
「お前は、まったく! …………いや」
 強い調子で口を開いた栄吉だが、なにか言いかけたところで勢いを失った。透子の顔を覗き込み、微かな思案の後で、首を振った。
「来ないでいい。お前は宿題でもしていろ」
「へっ?」
 さらなる口論を覚悟していた透子は拍子抜けした。身構えたまま瞳を瞬かせる。
「い、いいの? なんで?」
「……今日は人が来る。お前は来るな」
 栄吉の口ぶりからすると、参拝客とは違うのだろう。しかし、神社に来るような人間などいただろうか。十七年間、神社の隣で暮らしているが、透子には心当たりがなかった。
「お前が気にするようなことではない。そろそろ朝食にするぞ、透子」
 そう言って、栄吉は透子を残して居間に入っていった。すでに朝食の支度は整っている――はずだが。
 栄吉は居間に足を踏み込んだまま、立ち尽くしていた。あ、そういえば、と透子は思い出す。この中にも一人、いたんだ。
 部屋の中には、のんびりとくつろぐぬらりひょん。どこからか座椅子を引っ張り出してきて、テレビを眺めていたらしい。透子たちを横目に、呵呵と笑っている。そしてちゃぶ台の上には、食い荒らされた食事の跡――。
 栄吉は背後から見てもわかるほどに大きく息を吸い、今朝一番の声を張り上げた。
「出て行けっ!」



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