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「出て行け!」

 栄吉の激昂した声を聞き、透子は立ち止った。
 それに合わせるように宿題も足を止め、透子を窺うように見上げている。
 ずっと走り回っていた鎮守の森はいつの間にか終わりが見え、木々の切れ間には境内と参拝所が見える。透子から見て正面には手水舎、右手側には鳥居があり、左手が本殿だ。栄吉は参拝所の前で弁慶のように立ち、遠目からでもわかる怒りの表情を浮かべていた。
 そして、一人の男が栄吉と対峙するように鳥居の前に立っていた。はっとするほどに美しい男だ。
 夏と言うのに黒いスーツにネクタイまでしているが、美貌に浮かぶ表情は冷ややかだ。丁寧に整えられた黒髪に切れ長の瞳と薄い唇。冷徹な表情と日本人的な容貌が相まって、能面のように思われた。年は二十代後半だろう。若さに似合わず、栄吉にも劣らぬ迫力がある。
「そうはいきませんよ。永田さん。私は商談をしに来たんですから」
「貴様と話すことなどない!」
「そうですか? 私の話を聞かないと、永田さんの方がお辛い思いをすると思いますが」
 栄吉の怒声にもひるむことなく、男はゆっくりと本殿に向かって歩き出した。
「この神社とその周りの土地を、私に明け渡してくれるだけでいいんですよ。あなたたちのこれからの住まいは私が保証します」
「わしらはここを出て行く気などない!」
「出て行かざるをえないでしょう? もうこの神社も長くない。町の信仰を失い、経営も立ち行かなくなっていると聞いておりますよ」
 男は栄吉の傍で立ち止まるが、その視線は栄吉ではなく、奥の本殿を見ていた。わずかに目を細め、口元を意地悪くにやりと歪める。
「その前に融資すると言っているんですよ。この土地と引き換えにね。あなたたちにとっての不利益はないはずです」
「――――この、恩知らずが!」
「恩? あなたになんの恩があるのです?」
 とぼけた男の口調に、栄吉は白くなるほど握りしめていた手を伸ばし、男の襟蔵を掴んだ。男は少しだけ驚いたように目を見開いてから、小馬鹿にするように首を振る。
「この神社に命を救われたくせに、よくもそんなことが!」
「暴力はやめてくださいよ。永田さん、落ち着いて考えてください」
「落ち着いていられるか! このクソガキ、あの時のことを忘れたとは言わさんぞ!」
 今にも殴り掛かりそうなほどに激昂した栄吉と、それを冷ややかに見下ろす男。二人はあまりにも対照的であった。

 透子は唖然としながらその様子を眺めていた。
 あの男は誰だろう。栄吉の口ぶりからして、男が来たのは一度や二度ではないようだ。しかし透子は、あんな男を見たことがない。
 呆ける透子の足になにかがすり寄る。見れば、あの宿題だった。紙のくせにやけに柔らかで、まるで毛玉に触れられているような感触だった。それはいちど透子に頭をすり寄せると、ぱっと跳ねて茂みを飛び出した。まっすぐに男たちに向かった。
「あ、ま、待って!」
 透子の静止を聞かず、それは四つの足で栄吉たちに走る。栄吉たちもその存在に気付き、言葉を止めて、跳ねてくる異形を見やった。
 宿題は駆けだした勢いそのままに、迷うことなく男に飛び掛かった。男は驚きつつも反射的にそれを受け止め、両手で抱えた。それからまじまじと手に収まったものを見つめる。宿題もまた、つぶらな瞳に男を映していた。
「お前……?」
 男は訝りながら腕の中のものを眺めている。男の視線を確かめてから、宿題はゆっくりと視線を移した。透子の立つ茂みの方向へ。
 男と栄吉は視線を追い。茂みに目をやった。
「透子!?」
 栄吉が、彼らしくもない動揺した声色で叫んだ。男が一瞬だけ栄吉に視線をやってから、幽霊でも見たような顔で透子を見つめた。
 一方の透子も、強張ったように立ち尽くす。境内に来てはいけないと言われていた。盗み聞きをしていた。そして、その内容は透子の想像したこともないようなことだった。
 ――経営が成り立たない? 出て行け?
「透子、お前は戻れ」
 しばらくの沈黙の後、栄吉が言った。それに対して、喰ってかかるのは男だ。冷徹な表情が微かに歪み、怒りが滲み出している。
「どういうことですか、永田さん」
「どういうこともない。透子、戻れ。お前が聞くような話じゃない」
「なんで透子がここにいるんですか!」
 はじめて見せた男の荒い声に、しかし応えたのは透子だった。頭に溜まった困惑が、その声ではじけたような心地だ。
「私がここにいちゃ駄目なの!?」
 透子は茂みを掻き分けて出てくると、二人を見回した。今は高揚が体を支配している。
「だいたい出て行けってなに。あんた誰? なんで追い出されないといけないの!」
「…………透子」
 男は透子に目を向け、ぽつりとつぶやいた。だが透子の耳には、そんな言葉は聞こえない。
「お金なかったの? そんなの知らなかった! なんで言ってくれなかったの?」
「お前は知らなくていいことだ、透子」
「よくない! こんなことになってるなら……なにもできないけど教えてもらいたかった」
 透子はぐっと両手を握りしめ、玉砂利の地面を睨んだ。悔しい。それは男の横柄な態度に対してでもあるし、透子に秘密にした栄吉に対してでもあった。
 玉砂利を踏みつけ、透子は男に向き直った。顔を上げて睨むと、男は戸惑った様子で透子を見つめ返した。
「出て行ってよ!」
「透子、俺は」
「呼び捨てにしないで! ここは私たちの家なんだから、出て行って!」
 男はまだなにか言いたげに口を開こうとしたが、観念したように首を振った。手に抱えた付喪神の背をなでてから、息を吐く。
「わかった。今日のところは退散しますよ、永田さん。透子がいると分かっただけでも、収穫ですからね」
 では、失礼します。男はそれだけ言うと、拍子抜けするほどあっさりと背を向け、去っていった。
 鳥居をくぐり、石階段を下っていく男の背を眺める透子の気は収まらない。いらだたしさに地面を蹴り、顔をしかめる。
「なんなのあいつ! 地上げ屋? 栄吉、どういうことなの!」
「どうでもいい。透子、お前は母屋に戻れ」
「栄吉!」
「だから、来るなと言ったんだ」
 栄吉は透子の言葉には耳も貸さず、いつもと変わらない足取りで本殿へと歩いていき、そのまま中へ消えた。あまりにもにべもない態度に、透子には呆気にとられた。


 ――なんなの、あの男。
 一人残された透子は、男の姿を思い出してむかむかとしていた。こんな田舎町で、気取ったようにスーツを着て。顔ばっかりよかったけれど、性格は最悪だ。
 ――あんな高圧的な態度で。出て行け?
 冗談じゃない、と透子は思った。見知らぬ男に出て行けと言われて出て行けるのなら――――透子はとっくに出て行っている。
 こんな、町中から避けられて、化け物がはびこって、白い目で見られるような場所、こっちから願い下げだ。御神木が倒れ、悪い噂も流れていれば、神社に寄付金が集まらないのも当然。氏子からの冠婚葬祭の依頼もなくなれば、確かに経営は立ち行かないだろう。
 だけど、栄吉は頑としてここを出ようとはしない。こんな場所に、なにを守るものがあるのかと透子は思う。毎日毎日、神社の化け物を追い払いながら、掃除と奉納をする。そんな栄吉の行動が透子には理解できない。
 それでも、栄吉が出て行かないなら、透子だって出て行くわけにはいかなかった。
 それが拾われた恩に報いることだと思っているし――家族である絆だと思うからだ。
 なのに――なんで、教えてくれなかったの。
「……戻ろうかな」
 肩を落として母屋へ帰ろうとしたとき、透子はふと、手元が寂しいことに気が付いた。
 ――宿題は?
 透子の手にはない。神社に転がってもいない。となると――。
「――――あいつ!」
 男があのまま持って行ってしまったのだ。



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