上森神社の石段からは、山に囲まれた上森町を一望できる。町を通る唯一のバス道路に沿って家が集まり、山に近づくにつれて疎らになる。代わりに畑が延々と広がっていた。
 上森神社はその山の斜面に建てられていた。石段は上るのも降りるのも一苦労だ。
 それでも昔は、この階段を子供から年寄りまで行き来していた時代があったのだ。

 透子は母屋には戻らず、石段を一息に駆け下りた。
 宿題ももちろんだが、頭に血が上っていることもあり、男に文句を言いたかった。
 まろぶように石段を下りると、急斜面の道路に出た。斜面の先は山に続いており、林業をする町の人々の作業所があるはずだ。反対側は町の中心へ続いている。宗太やその祖母の家も、この斜面の道路沿いにあるはずだ。
 男は石段の下で待ち構えていた。紙の束を手に、透子の姿を認めてにやりと笑う。まるで降りてくるのを知っているようだった。

「よう、透子」
「あんた……! 世界史の宿題!」
「宿題?」
 男はちらりと腕にある手足の付いた紙の束を見やってから、指でその尾を小突いた。
 瞬間、ころんと男の腕から紙束が転げ落ちる。

 地面に落ちたそれを視線で追いかけた透子は、「あっ」と声を上げた。
 宿題がない。代わりに立派な狸が一匹、男の足にしがみついている。
「ば、化かされてたの……?」
「気が付いてなかったのか?」
 にやにやしながら、男は腕を組んで透子を見た。男の傍で、狸は逃げる風もなく大人しくしている。
「じゃあ、本物の私の宿題は」
「さあ。元の場所にでもあるんだろうな」
 ということは、部屋を出るときからずっと化かされていたというわけか。無性に悔しくて狸を睨むと、それは尾を竦めて男の影に隠れた。男はその様子を見ると、能面を崩して人間的に笑った。
「…………変に思わないの?」
「なにが?」
「狸が化けるなんて、ありえないでしょう? 普通はびっくりするでしょ?」
 普通は――町の人々は、異常な存在を恐れ、化け物神社と呼ぶ。
 嫌われ者の神に化け物の跋扈する神社。そう言って遠巻きにするのだ。
「ありえないも何も実際に化けているだろう」
 こともなく男は言った。栄吉や時折訪ねてくる彼の娘たちを除いて、そんな反応をされたのは初めてだった。
「…………あんた……変なの」
「あんたじゃない。俺は日置涼平(ひおきりょうへい)。今度こそ忘れるなよ」
「りょーへー……涼平、今度こそ?」
 涼平と名乗った男は、苦みのある表情を浮かべたが、なにも答えなかった。
 なんだか、変な男だと透子は思った。この暑い中スーツを着込み、意味深長な言葉を吐く。透子を弄んでいるのだろうか?
 訝しんでいると、涼平の足元をうろついていた狸が不意に駆け出した。尻尾を立てて跳ね、近くの茂みに逃げ込む。

 どうしたのかと思う透子の横を、作業着姿の中年男性二人が通り過ぎた。林業の作業員だろう。山の中腹の作業所から、町へ降りていくところらしい。
 男たちは横を抜ける際に透子たちを一瞥し、聞えよがしに舌打ちした。
「ああ、あれが……」
「上森神社の捨て子だよ。例の山津波の時の」
「不吉な子供だな。さすがはあの神社が拾っただけある」
「あんまりでけえ声出すなよ。また山津波でも起こされたら困るからな」
 二人は笑い声を上げながら、斜面を下り、そのうち見えなくなった。透子は男たちの背中を見ることもできず、唇をかみしめる。
 あの男たちが特別なのではない。あれが町の人々の、透子や上森神社に抱く思いなのだ。
「……町の連中は、みんな、ああなのか?」
 涼平が男たちの消えた方向を見ながら言った。
 透子は頷きもしなかった。が、黙っていることこそが肯定の証だ。
「――――十七年前に、上森神社の神が、町に山津波を引き起こしたんだってな」
「黙ってよ」
「町の人間は神を憎み、そこに住む連中も同類と見ている、と。話には聞いていたがな」
「黙ってって言ってるでしょ!」

「俺以上に恩知らずな連中だ」

 吐き捨てるように言うと、涼平は透子に視線を移した。
 思わず身構える透子の頭を、涼平の大きな手がなでる。意外に優しくて温かいその感触に、透子は呆気にとられた。
「透子、時間あるか? いつまでも外にいる理由もないし、場所を変えて話そう」
「え」
 思いがけない誘いに、透子は驚きの声を素直に上げた。涼平は誘いを受けるのが当然と言う表情で、透子の返事を待つ。彼の指先は、透子の髪をなにともなしに弄んでいた。
 透子は少し悩んでから、首を横に振った。
「知らない人について行っちゃいけないから」
「別に取って喰おうってわけじゃないんだが」
「……私たちを追い出そうとする人と、話したくない」
 意外な態度に誤魔化されそうになっていたが、涼平は透子たちを追い出そうとする地上げ屋かなにかなのだ。
「それじゃあ、また今度だな」
「今度、って、また来る気!?」
「この神社を出て行くまでは、何度でも」
 悪びれる風もなく涼平は言った。涼平は、透子たちが自分の言うことを聞いて当たり前のように思っているのだろうか。そんな様子にたまらず、透子は未だ髪に触れ続けていた涼平の手を振り払う。
「なんでそんなに追い出したいの!」
「さあ?」
「私たちは出て行かないから! 帰って!」
「はいはい」
 小馬鹿にするように肩をすくめ、涼平はそう言った。それからゆるく手をひらき、透子に振って見せる。
「またな、透子」

 それはなんとなく、子供が別れ際にする仕草に似ていた。



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