湿った風の気配に、透子は顔を上げた。離れの自室から縁側に向けて顔を出し、空の色を見る。薄暗い鉛色で、重たげな雲が今にも雨を落とそうとしていた。
「また、雨……」
 近頃雨が多い。夏の軽快な明るさはすっかりなりを潜めてしまった。透子は憂鬱になる。
 透子やこの町にとって、雨は気分を下げるだけではない。嫌なことを思い出させるのだ。
 ――あの日もこんな雨だった。
 透子が生まれる前に起こった山津波家々を飲み込んだ災害は、この町にとってはまだ、過去のこととは言えなかった。

「透子」

 ため息をついた透子の耳に、聞き覚えのある声が届く。声に目を向けると、茂みから制服姿の宗太が姿を現した。宗太が家まで来るなんて珍しい。子供のとき以来だろうか。
「宗太、どうしたの」
「……ばーちゃんちに行く途中だから寄った」
「寄った……って、わざわざ草むら抜けて?」
「なんでもいいだろ」
 ぶっきらぼうに言うと、宗太は肩についた葉を叩き落とした。ここ数日の雨で地面がぬかるんでいたせいか、靴からズボンの裾にかけてまで泥で汚れている。
「お前んとこ、最近よそ者が出入りしているだろ」
 宗太は草むらの前で立ったまま言った。透子のいる離れまでは、近付こうとはしない。嫌われているからだろう、と透子は俯く。
「よそ者?」
「スーツ着た男。……町の連中の間で噂になってる。最近の雨のせいもあって、また悪巧みしているんじゃないかって」
「悪巧みって!」
 透子は思わず身を乗り出し、声を上げた。どんな噂だか、それだけでわかってしまった。
「馬鹿馬鹿しいよな。神様なんて、いるわけないのに。……でも、信じてる奴もいるんだ」
 宗太の言葉にも、透子は賛同することは出来ない。
 宗太にとっては神は悪いものではない。ただ、存在しないのだ。神も、妖怪も。
「それに、あいつのお前を見る目…………」
 言いかけて、宗太は口をつぐんだ。それから、苦々しい表情で視線を透子から別の場所へ移す。
 透子は宗太の見る先を追って、あ、と声を上げた。
 見覚えのある男が立っている。真夏にスーツ姿で、顔だけは飛び切り良い男。
「涼平」
「透子、俺はそれだけだから。じゃあな」
 宗太はそう言い残すと、透子に背を向けて草むらに戻っていった。
 なにか声をかける隙もない。宗太の走り去ったあと、ぽつりと雨の最初の一滴が落ちてきた。
「透子も隅に置けないな」
 涼平はにやりと笑って言うと、当たり前のように透子のいる縁側にやってきて腰を掛ける。透子は居心地悪く、少し距離を取った。
「なにしに来たの」
「透子と話しに」
「話すことはないっていつも言ってるでしょ」
 いつも。
 そう、涼平はあれから、頻繁に透子のいる離れへ顔を出した。母屋を経由すると栄吉に叩き出されるものだから、鎮守の森から続く草むらを通ってやってくるのだ。それも、透子でさえ知らないような道を通って。
「だいたい、どうやってここまで来てるの。栄吉に見つからないなんて、私も無理なのに」
「教えてもらっているからな」
 涼平はどこか得意げに、縁側で足を揺らした。彼の長い足が雨で濡れ始めた地面を蹴る。
「教えてもらった、って、誰に……」
「狸」
「はあ?」
「宿題に化けていた狸だ。あいつ、俺をお前に会わせたがっているみたいだな」
 透子は涼平の横顔をまじまじと見た。冗談を言っているような顔ではない。しかし、どうにも彼の容姿と狸と言う単語が不釣り合いに思えた。
 ――もしかして、今まさに、自分は化かされているのではないだろうか?
「……涼平って、何者なの? 私たちを追い出そうとするのはなんで? 神社のことを昔から知ってるみたいだし、妖怪に驚かないし」
「俺?」
「…………もしかして、涼平は妖怪なの?」
 透子の視線に、涼平はゆっくり自身の視線を重ねる。真正面から顔を合わせると、透子には、不思議と彼が少年のように思えた。――いまだ透子を見上げる、生意気な瞳を持つ少年だ。

 雨の音ばかりが聞こえる。
 顔を合わせてずいぶんと時間がたった気もするし、ほんの一瞬の気もする。奇妙な時間のよどみを破ったのは、不意の涼平の破顔だった。
「あはははは、俺が妖怪? なんだそれ!」
「だ、だって、妖怪ならこの神社にずっといるから、私や栄吉を知っているだろうし! それに狸とだって仲良くなれるでしょう?」
 涼平の笑い声に、透子は顔を赤くして答えた。どうやらとんでもなくおかしなことを言ってしまったらしい。涼平の笑い声は止まず雨の音も掻き消そうとしていた。
「違うの? わ、私、涼平が妖怪だから私たちを追い出そうとしているんだと」
「……妖怪が、追い出す?」
 笑い声をゆっくりと噛み殺し、落ち着きを取り戻しながら涼平は言った。
「最近、家に妖怪がしょっちゅう出るの。今まではこんなことなかったから。……涼平が妖怪なら、私たちを追い出すことが目的で脅かしてたんだと思ったんだけど」
「ふうん……」
 呼吸を整え、涼平は少し考えるように首を傾げた。だが、すぐに首を振る。
「安心しろ。俺は人間だ。昔からここを知っているのは……小さい頃、ここに住んでいたことがあってな。ここにもよく遊びに来た」
 へえ、と透子は涼平を見上げた。涼平は透子に目を向けてはいるが、視線がかみ合わない。ここではない遠くを見ているようだった。
「あとは、追い出したい理由か。…………今のお前は信じないだろうな」
「信じられないような理由なの?」
 涼平は雨に手を伸ばし、しばらく黙ってから、囁くような声を出した。
「……お前との約束だ」
「え?」
 涼平は空を見上げた。
 雨の粒が大きく、重たくなって落ちてくる。いくつもいくつも。
「お前は本当に全部忘れたんだな、透子……」
 雨の音が涼平の言葉をかき消す。深い陰りの差す彼の横顔を、透子は黙って眺めていた。
 彼はおそらく地上げ屋で、透子たちをこの土地から追い出そうとしている男だ。こうして話しているのも何か裏があるのでは、という不信感だって無いわけではない。
 ――だけど、なんだろう、この気持ち。
 涼平の寂しげな顔が、透子の心を曇らせる。

 二人の会話を破ったのは、母屋から響いた甲高い音だった。
 なにか硬質なものが弾けるような音が、耳を刺すように響いた。一度ではない。何度も、何度も続けて聞こえてくる。
「な、なに!?」
 透子は跳ね起きた。まるで子供たちがめちゃくちゃに暴れまわっているような音だ。
「泥棒!?」
 こんなやかましい泥棒がいるだろうか。そうは思いっても、無視をするわけにもいかず、透子は離れを飛び出した。
「透子、待て!」
 涼平が慌てて追いかけてくる気配がした。

 母屋に来て、透子はすぐに音の由来が何であるかわかった。
 狸やら猫やら、獣たちがそこかしこを飛び回っているのだ。普通の獣ではなく、どうやら妖怪の一種らしいとすぐにわかる。狸の顔をした子供が硝子を割り、二股の尾を持つ猫がそこらの物を投げたり壊したり、好き勝手なことをしていた。
「もし、お姉さん、お姉さん」
 唖然とする透子の袖を引き、誰かがそう言う。
 振り向けば、赤い着物を着たおかっぱ姿の少女が俯きがちに立っていた。背は透子と同じくらい、年の頃も変わりなさそうだった。
「ばあ」
 とその少女は顔を上げた。その顔には目も鼻も口もないが、驚く気にはなれなかった。
「ねえ、びっくりした? びっくりした?」
 しかもその少女は、妖怪にあるまじき親しさで透子に語りかけてくる。
「ねえ、あたしの顔わかる? どんな顔してたか、わかる?」
「うるっさーい!」
 たまらず透子は叫んだ。ここ最近、妖怪たちがやけに多いとは思っていたが、そろそろ我慢の限界だった。
「どうしてこんなに妖怪ばっかりなの!」
 まさか、本当に透子たちを追い出したいと思っているのではないだろうか。
「わからないの?」
 少女はあどけない仕草で言った。それをきっかけに、騒いでいた獣たちがぱっと逃げる。
 透子は目を白黒させる暇さえなかった。誰もいなくなった母屋の廊下は、今は耳が痛いほど静かになっていた。騒々しさの後の、ふと胸の中が空になるような、空虚さがあった。
 そこに、少女だけが残っている。
 ――いや、今は少女とは言えなかった。
 影だ。
 夢の中で見た、影がそこにいた。
 幻覚を見せられているのだろう、とは透子にもわかっていた。だけど、飲まれるようにその影を見てしまう。それはゆるゆると形を変えて行く。
 同時に、耳元で泣き声が聞こえた。幼い子供の声。耳を済ませると、痛い、痛いと言っているのだと気が付いた。
 声に気を取られている間に、影は姿を変えていた。今度は、少女よりももっと幼い少年の姿。半袖に半ズボン、いかにも子供らしい出で立ちだ。夢で見たような少年であったが、顔はやはりなかった。
 少年は透子の手を握った。顔のない表情が、まるで笑うように歪んだ。

「思い出した?」

 ――――透子の頭の奥で耳鳴りがした。
 誰かが助けを求める声と、祈りと――。



 ――大地を揺するような、土砂流の轟音。



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