聖なる夜はあなたと


「なにそれ、約束が違うじゃん!」
 委員長の声が私の耳を打った。私は思わず首をすぼめ、マフラーの中に顔をうずめる。帰り際の生徒が靴を履きながら、何事かと私たちを見ていた。
「劉生くん、連れてくるって言ったじゃん!」
「……言ってないよ」
「言ったでしょ! 約束したじゃない!」
 してないよ、小さな私の言葉は、たぶん委員長には届いていない。
 翌日、私は委員長になかなか声をかけられずにいた。確実に委員長の機嫌を損ねるとわかっていたからだ。言おう言おうと思って、朝を逃し、昼休みを逃して、放課後にまでなってしまった。ホームルームを終えたあと、一人で昇降口へ向かった委員長を追いかけて、ようやく話をすることができた。
 そしてもらった言葉は――予想通りだった。
 靴箱の影で、私と委員長は言い争っていた。いや、一方的に私が責められていただけだ。委員長の理不尽な言葉を、私は唇を噛んで聞いていた。
「とにかく、絶対に劉生くんを連れてきてよね。私たちだって、そのつもりで準備してるんだから」
「む、無理だって言ったじゃない!」
「無理でも連れてきてよ!」
 委員長が私に詰め寄って。一層強い口調で言う。
「詩音ちゃん、劉生くんが来るなら参加してくれるって言ってくれたのよ。これでクラスの女子全員。それに私、先生にも来てくれるようにお願いしたんだから。それなのに劉生くんが来なかったら、計画狂っちゃうじゃない」
 ふう、と息を吐き、委員長はうつむく私の肩を掴んだ。その力は、有無を言わせないほど強い。
「隆子ちゃん、今度こそ約束よ。次は守ってくれるよね」
「か、勝手に約束なんて……!」
「や、く、そ、く、だからね。守ってくれるまで、口きかないから」
 念を押すように私をひと睨みすると、委員長は私から手を放した。委員長の視線と凄味に飲まれて、しばらく言葉が出ない。顔を逸らし、背中を向ける委員長を呆然と眺める。
「ちょ……っ」
 靴箱から靴を取り出し、帰ろうと背中を向ける委員長を見て、私は我に返った。なにか言わないと、また勝手に話が進んでしまう。
「約束できないよ、委員長。劉生は用事があるって……」
 しかし、言いかけて開いた口は、すぐにつぐんでしまった。委員長は返事をせずに靴をはき、鞄を持ち直す。返事どころか、ぴくりとも反応しない。そのまま黙って外へ歩き出してしまった。
「ま、待ってよ、委員長!」
 慌てて靴を取り出し、追いかけようとする私の肩を誰かが叩いた。
「隆子ちゃん」
 小さな、しかし可愛らしい声が私を呼び止める。
「いいよ、隆子ちゃん、放っておこう」
「千恵里」
 振り返ると、心配そうな顔の千恵里が立っていた。どことなく不機嫌そうなのは、たぶん私のために怒ってくれているのだろう。唇を尖らせ、委員長が去っていった昇降口を見つめる。
「委員長、ちょっと強引すぎるよ。劉生くんだって都合があるのに」
「……うん」
 私は俯きがちに頷いた。結局、はっきりと断れないまま委員長は帰ってしまった。追いかけるべきだろうかとも考えたが、たぶん今は話も聞いてくれないだろう。
「劉生くんも嫌そうな顔してたよ。自分の話をいないところで進められてさ」
「劉生?」
 思わず顔を上げ、辺りを見回す。委員長がいなくなったためか、ちらちらと様子を窺っていた生徒たちはいなくなっていた。千恵里の他には、下校しようと靴をはきかえる生徒しかいない。
「あれ? 劉生くん、さっきまでいたのに」
 千恵里が小首を傾げる。
「委員長と隆子ちゃんが話してるとこ、一緒に見ていたんだよ。どこ行っちゃったのかなあ」
 ――劉生。
 昨日の不機嫌な劉生が浮かぶ。いつもだったらあまり気にしないけど。
 昨日の今日、喧嘩したばかり。千恵里にも何も言わず、いなくなった劉生の気持ちがわからない。
「あ、隆子ちゃん!?」
 千恵里が驚いた声を上げる。
 私は駆け出していた。劉生を追いかけないと。なにか、せめて言い訳だけでも。
 冷たい廊下に足音を響かせ、私は走る。劉生はどこ?

 体育館へと続く渡り廊下で、私は劉生を見つけた。
 体育館からは運動部の練習の声が聞こえ始めていた。劉生も部活に行く途中だったのだろう。ジャージ姿で渡り廊下を歩いているところを、私は声をかけた。
「劉生!」
 息が切れ、かすれた声で呼んだ。乾いた空気に喉の奥が張り付く。風が廊下を吹きつけるが、寒さは感じなかった。額にかいた汗をぬぐう。
「ねーちゃん」
 劉生は立ち止り、低い声で応えた。静かな声だが、機嫌が悪いのはすぐにわかる。
「俺、絶対に行かないから」
 そう言って、劉生は振り返った。冷たい目が私を見据える。私は思わず身をすくめた。
 劉生は不愉快そうに息を吐く。行動の一つ一つが、怒っているのだと知らしめる。怒らせたのは私だ。何も言えない。
「俺、利用されるのって好きじゃない」
 視線を落とす私に、劉生がぽつりと呟いた。劉生を利用する――私のことだ。私を切り裂く一言だ。抑揚のない口調が、余計に私の胸をつく。
 劉生はそれだけ言うと、また体育館に向かって歩き出した。今日も部活だ。クリスマス会をするような仲間たちと。引き留めることも、私にはできない。
 私は視線を上げられないままだった。唇を噛み、自分の足元を睨む。
 委員長の言葉よりも、劉生の態度の方が、ずっと重たかった。

 ○

 家に帰っても、並んで夕飯を食べていても、一緒にテレビを見ているときでも、劉生とはほとんど口も聞かなかった。喧嘩をするのは初めてではないけど、いつもはぎゃんぎゃん言い合って、言いたいことぜんぶ言って、なんとなくすっきりと仲直りをする。
 こんな風に、心に曖昧な重みを感じることなんてなかった。劉生の不機嫌が怖い。
 嫌だって怒って怒鳴ってくれればいいのに。その方がまだ楽なのに。
 すぐ近くにいるのに、劉生とは言葉を交わさない。
 この夜は、永遠に続くんじゃないかと思うほど長かった。


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