2−2

「健康診断って、あれだけで終わりなんだ」 
 ロビーの椅子の上で、携帯電話を弄りながら祥子が言った。 
「あたし、前の学校ではレントゲンとかもやってたけどな」 
 私達は、B棟三階のロビーに溜まっていた。何をしようというわけでは無く、一人二人と増えていった。これが、十二時を過ぎる頃にはだんだん減っていくのだろう。 
「この学校でも、そういうのは学期の初めにしかやらないけどね」 
 風呂上がりの愛海が、爪にマニキュアを塗りながら答えた。声は出すが、視線は指から離さない。 
「その代り、回数が多いんだよ。月一くらいでやるもんね」 
「まじで」 
「祥子が来る前にも、一回やったもん。いつくらいだっけ?」 
 愛海が指先に息を吹きかけながら言うと、誰ともなく返事が返ってくる。 
「六月の頭くらい」 
「あのときも、何か流行ったんだっけ」 
「この前みたいに凄くないけど、外の病院に入院する人が出たらしいよ」 
 本当か嘘かも分からない話がいくつも出たが、祥子は興味なさそうに鼻で返事をするくらいだった。ひとしきり話が終わると、祥子は誰に言うわけでもなく呟いた。 
「面倒臭い学校だね」 
 それに関しては、全く同感だった。 

 ロビーにある大画面のテレビは、人がいる限り消える事は無かった。大抵は、民放の適当なバラエティー番組が多い。ニュースや教養番組の類は、点いていてもすぐに番組を変えられてしまう。私達は学校の外の事を知らないが、積極的に知ろうともしなかった。テレビに流れる情報を知っても、対して得るものがないからだ。 
 兵士募集のコマーシャルが流れ、誰かが番組を変えた。 
「舞」 
 呼ばれて振り向くと、先ほどまではいなかった橘さんが立っている。手にはリモコンが握られていた。部活が終わって帰ってきたばかりなのか、くたびれたジャージを着ていた。 
「舞って、中等部からここに居るんだよね。E棟の怖い話って、知ってる?」 
 いつも不敵な橘さんらしくない、神妙な顔をしている。その割に、聞かれた内容が怖い話とは奇妙だ。 
「いくつか、知ってはいますけど」 
 私は橘さんの言葉に答えながら、隣に座る愛海と目を合わせる。愛海は肩をすくめた。 
「深夜二時に幻のE棟が、って話なら、ねえ?」 
「だから、それは嘘だって」 
 確かに今このロビーに集まっている人は、大体が高等部からの転入生だった。中等部一年から通っている私が、一番の古株かも知れない。だからと言って、怖い話に詳しくなるわけではない。 
 橘さんは、私と愛海の間に割り込んで座った。怖い話の好きな人はその周りに寄って来て、嫌いな人達はロビーの端に集まって、テレビの音量を上げた。 
「結構いろんな噂ありますしね。昔はE棟があったのに、自殺者が多過ぎて潰したとか」 
 私が一つ話を提供すると、他の人たちも自分の知っている話を言いたがった。その中のどれも聞いたことがあるというのは、やはり中等部から居るという強みなのだろうか。 
「昔、戦死者の墓だったとか」 
「野戦病院代りに使われたって聞きましたよ」 
「軍の人体実験の施設だったらしい、今でもその怨念がでるって」 
「空襲に遭って、あそこだけ燃え落ちた、なんて話は」 
「そう、それで改築しようとしたのに建てられなかったとかね」 
 様々な話が出たが、橘さんは相変わらず気難しそうに首を傾げていた。 
「どうしたんですか?」 
 半ば義務感でもって聞いてみた。大抵の事は自分で解決できる橘さんの悩みは、厄介で面倒なことが多い。出来る事なら関わりたくないのだけど、黙って見ている事も難しかった。 
「E棟に行きたいんだよ」 
 橘さんは両手を組み、床を見ながら言った。 
「肝試し、するらしくて……」 
「肝試し?」 
 そう尋ねると、橘さんはわざとらしいくらい大きく溜息をついた。 
「うちの後輩がさ、E棟の幽霊を見に行くって言ってたんだよ。同級生と言い争ったか何かしたらしくてさあ。証拠取って来るって言って、聞かないんだよ」 
 どこかで聞いたような話だった。私は、橘さんを挟んだ愛海に顔を向ける。愛海も同じ事を考えていたのか、私を見ていた。 
「今日の夜行くって言ってんだけどさ。あたしも結構脱走したくちだから、人の事言えないけどさ。夜中に出歩くのは、止めた方がいいと思うわけよ」 
 言い終えて、また溜息をついた。外部生の大半は、脱走未遂の経験者だろう。だから、あの恐ろしい説教もよく知っている。おまけにこの学校は、夜中の出歩きは即脱走とみなされるのだ。 
「あのさ、橘。その後輩って初等部?」 
 どう切り出すか迷っている私よりも先に、愛海が言った。橘さんは瞳を丸くさせ、愛海を見つめている。 
「よく分かったね」 
「ピンクのリボン?」 
「そう、髪の長い子」 
 間違いなかった。橘さんは心配そうに目を伏せている。 
「止めに行きたいんだけど、どこに行ったか分からないんだよね。E棟だって噂の建物も結構あるし」 
 厄介な事になる予感があった。私は余計な事を言わないようにと愛海に目配せをしたが、愛海は残念ながら全く気が付かなかったようだ。 
「西校舎の裏に居るんじゃん? あの物置」 
「物置?」 
「橘の後輩が言ってるの聞いたよ」 
 愛海が言った瞬間、橘さんは無言で立ち上がった。随分と思い詰めているようだ。面倒見がいい云々では無く、その後輩に対して思い入れがあるように感じた。 
「ちょ、待って下さい、橘さん」 
 橘さんは黙ったまま、その場を去ろうとした。私の腕を掴んで。 
「離して下さい、何か嫌な予感がするんですが」 
「例えば」 
 橘さんはやっと声を出した。 
「もしも見つかって教師に説教されるときに、あたし一人より他に居た方がいいじゃん。舞は結構先生受けが良いから、もしかしたらそんなに怒られないかも知れないじゃん?」 
「自分勝手!」 
「一人より二人の方が怖くない」 
 橘さんはレスリング部の腕力で私を引っ張っていく。下手に巻き込まれるのは御免だった。私一人が損をするのは、もっと御免だった。 
 とにかく、近場のものを掴む。誰でもよかったけれど、出来るなら憎らしい奴が良かった。 
「止めろ、舞。離せ!」 
「愛海、怖い話とか好きでしょ」 
「実際に行くのとは違うんだよ、馬鹿」 

 橘さんの力は凄いと思うが、私もそれなりに自信があった。道連れは、多い方がいい。心が楽になる。 



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