4−1

「お姉ちゃん」 
 私は何度も読み返して、折り目の端から破れかけた手紙をまた引っ張り出していた。あの気弱な弟が、軍隊でまともにやっていけるはずがない。あの怖がりな弟が、人を殺すことなどできるはずがない。いくつもの検閲を免れるためにこんな手紙を書いたのだろうけど、嘘ばかり並んでいる事はすぐに分かる。五年も会っていなくても、私はあいつの姉なのだ。 
「おねえちゃーん」 
 どうしているのだろう。苛められていないだろうか。つけ入りやすい性格をしているから、誰かに騙されたりしてはいないだろうか。 
「お姉ちゃんってば!」 
 私は突然肩を揺すられた。この瞬間まで私の意識はどこか遠くへ行っていたため、まるで長い眠りから突然覚まされたように感じた。 
 私はぼんやりと、肩に置かれた手を見た。そこから上へ、腕を見て肩を見て、顔まで到達した。知らない、しかし見覚えのある顔があった。誰かに似ている。 
「お姉ちゃん、起きてる? 実は寝てんじゃないの?」 
 声は、女性というにはあまりにも低かった。まるで男の人のようだ。まるで……。 
 誰に似ているか分かった。この顔は、私に似ている。先祖代々受け継がれてきた、よく言えば愛嬌のある、私と同じいまいましい丸顔が存在した。茫然と、私はその顔を見つめた。信じられない。目が覚めたような気がして、実は夢の中ではないだろうか。 
「お姉ちゃん、五年ぶり」 
 私に似た顔は、私よりも首一つ高くなっていた。気弱そうな瞳を、今は夏の光を浴びて輝かせている。 
「たつや?」 
「辰哉」 
「本当に」 
 目の前の相手が頷くよりも早く、私は抱きついていた。触れてみれば分かる。夢ではない、確かな感触があった。 

 夏の空気は蒸し暑く、いくら嬉しくてもいつまでも抱きついてはいられなかった。それに、喜んでばかりもいられない。ここは悪名高き男子禁制の女子高なのだ。風を通すために開けていた扉を閉め、カーテンを引いた。そうしてから私は辰哉と向かい合い、声を落として尋ねた。 
「どうやってここに来たの。あの手紙は」 
 あの手紙が届いてから、まだひと月もたっていない。この学校の夏休みだって明けていないのだ。私の問いかけに、辰哉は面目なさそうに頭をかいた。 
「あの手紙を出したあと、結局すぐに前線に配置されたんだよ。だけど、辛くて怖くて逃げてきちゃった」 
「逃げてきた」私は鸚鵡のように繰り返した。信じられない。辰哉はまるで、宿題をするのが嫌で投げ出して来たかの如く簡単に言った。 
「僕、やっぱり戦うのが苦手だったみたいで、こっそり抜け出してきたんだ。でも、その後行く当てもなくて、お姉ちゃんのところに来ちゃった」 
 辰哉は五年前と同じ表情で、目を輝かせながら笑った。事も無げに笑った。 
「この学校に、どうやって入ってこれたの」 
「運搬用トラックに忍び込んで」 
「見つかったらどうするつもりだったの」 
 辰哉はまた頭をかいた。 
「考え無かったよ」 
 私は口を開き、少しの間息を吸い続けた。何か、腹の底にたまっているものを吐き出すために、弾みをつけているのだ。照れたように笑う辰哉の耳元で、私は周りの事など一切考えずに言ってやった。 
「この、大馬鹿っ!」 

 よくよく話を聞けば、辰哉は全く運が良かったらしい。運送トラックの中に紛れるなどという使い古された手法でこの学校に入れたのも、今まで誰にも見つからなかったのも、ただ運が良かったとしか言いようがなかった。 
「僕の前に、同じ事を考えて別のトラックに忍び込んでいた人が捕まったんだ。だから、彼にみんなの目が向いている隙にこっちへ来れたんだ。建物の中は、前にお姉ちゃんが教えてくれた通りに来たよ。迷わなかった」 
 それでも見つからなかったのは、今日が不真面目な生徒のための補習があり、さらに年に二度しかない長期外出許可日だからだ。辰哉は信じられないくらい命知らずな事をした。その上、これから先も安全とは言えないのだ。 
「男がいるなんて知られたら、即退学だよ。二人で追い払われて、野垂れ死にするよ」 
「それでも何とかなるよ、多分」 
 辰哉はそう言って笑った。 

 何とかなるなんて楽観的には考えられなかった。これからどうするべきかも分からないが、とにかく身の振り方を決めるまで、学校には辰哉を見つけてほしくなかった。しかし、そんな事私一人では不可能だ。 
 私は私の信用する人達を、三階ロビーの溜まり場に集めた。というよりは、勝手に集まってきた方が正しい。要するに、私は三階ロビーでたむろしている人たちのほとんどを信用しているのだ。ここに居るのは、外部生ばかりである。 
「弟?」 
 橘さんは珍しい動物を触るように辰哉の体に触れた。辰哉は照れくさそうに体を引っ込めるが、橘さんは面白がって追いかけている。しばらく続きそうだと思ったので、私はそれを無視して集まった人々に協力を求めた。 
「かくまって欲しい。ばれそうになった時とかに、上手く誤魔化して貰えないかな」 
 集まっているのは、十人と少しくらいだった。親しい人もいれば、話をした記憶がない人もいる。誰もが口を開き、呆けた顔をしていた。 
「いいよ」 
 そう言った愛海は相変わらずマニキュアを爪に塗っているところだった。煌めくラメの入ったピンク色に、白を重ね塗りしている途中だったようだが、薬指で作業を止めて、私に真っ直ぐ瞳を向けた。 
「別に困ることないじゃん、男がいたって」 
 「だけど」と「でも」がいくつも聞こえた。それはそうだ。私だって、突然知らない男の人がこの学校に入ってくれば、驚いて迂闊な事をしてしまうかも知れない。だから今の内に、辰哉の存在を知らせておいたのだ。 
 それを愛海は鼻で笑った。 
「教師には言いたくない。内部生の馬鹿にも知られたくない。ついでに鼻も明かしてやりたい。そうじゃね?」 
 いつの間にか愛海は、再び爪を凝視していた。何が気に入らないのか、薬指を見ながら眉間に皺を寄せている。 
「それに、男の子居た方が楽しいしね」 
 誰が言ったのかと思ったら、祥子だった。辰哉を目で追いかけながら、いつもよりずっと意地の悪そうな顔をしていた。昔から辰哉は、年上の女の子にいじめられる傾向があるのだ。 

 いつの間にか、辰哉を囲んで質問の場が設けられていた。誰が何と言おうと、やはり学校の外で起こっている事は気になる。そういう意味では、辰哉は最高の情報源だった。なにせ、仮にも軍隊に入っていたのだ。一般では得られない情報も多少持っていた。 
「結局、戦況はどうなの? ニュースでは勝ち続けてるみたいに言ってるけど」 
 橘さんは辰哉を追いかけるのを止めて、テレビのリモコンを弄りながら尋ねた。生憎ニュースはやっていないようだったが、橘さんはチャンネルを変え続けていた。 
「ほとんど嘘だと思いますよ。前線はみんなぼろぼろです。僕の居た部隊も爆撃を浴びて、散り散りになったんです。まあ、その隙をぬって逃げたんですけど」 
「やっぱりそうなんだ……」 
 溜息を洩らすように、橘さんは返事をした。 
「本当は、どうなっているのかな」 
 何も情報が与えられていないと、不安で仕方がなかった。今までは偽の情報だと分かっていても、テレビニュースを頼りにしていたが、それも辰哉によって否定された。沈んだ空気の中で、しばらく誰も口を利かなかった。 
「ラジオ、作ってみようか」 
 誰かが言った。みんな示し合わせたように、声の方向を見た。 
 背の低い、痩せた少女だった。いかにも秀才然とした眼鏡をかけているが、あまり似合ってはいなかった。何度か姿を見かけた事はあるが、私は彼女と話したことがなかった。 
「妨害電波を逃れて、外国の電波を受けるラジオ。衛星からなら、ここにも届いているはず」 
「そんな事できんの、高木」 
 顔の広い橘さんは、彼女の事を知っているようだ。彼女――高木さんは口の端を歪めて、善人らしからぬ笑みを浮かべた。 
「外部特進生をなめるなよ」 
 高木さんは特別進学クラスだったのか。私は思わず凝視した。内部進学と違い、外部から特進に入る事はほとんどない。転入試験が桁外れに難しいからだ。いつか噂の転入試験問題を見せてもらったが、少なくとも私の頭で理解できる事は半分もなかった。 
 高木さんはすぐに取りかかると言って、ロビーから出て行った。他の事にはあまり興味がないようだ。彼女に秀才らしい眼鏡が似合わないのは、きっと秀才ではなく天才だからだ。 
「あいつは変なんだよ。でもまあ、使いようだね」 
 橘さんは高木さんの後ろ姿を見ながら肩をすくめた。 
「それよか、辰哉だよ。このまんまだとみんなで隠しても、絶対ばれるよ」 
 全員の目が再び集中し、辰哉は身を強張らせた。忙しなく目を動かし、落ち着かなさそうである。 
「辰哉君って、舞に似てるよね」 
 祥子がいやらしい笑みを浮かべていた。私と辰哉を見比べ、時折満足気に頷いている。辰哉は悪い予感に身震いしているようだが、私は愉快な出来事が起こりそうな気がした。 
 祥子は楽しげに意地悪く、辰哉に言ってのけた。 
「女の子みたい」 
 子供の頃から何度も言われ続けていた言葉だ。ついでにその先に起こる事も予想できるのだろう。辰哉は頭を抱えて呻き、私は心の中で笑っていた。 



inserted by FC2 system