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大学見学の日以来、彼の姿をよく見かけるようになった。いつの間にか、大抵はロビーに現れて談笑している。はじめは何か目的があってきたのだろうと思っていたが、そんな素振りは全く見せなかった。そんな光景に慣れてしまった頃、私はつい気になって聞いた。
「彩樹さん、何しに来ているんですか」
いつものようにロビーでくつろぐ彩樹さんを、私は見下ろしていた。平日の昼前だからか珍しく人がいないために、彩樹さんはテレビのチャンネルを回しているところだった。退屈を持て余しているようだ。私は弟が体調を崩したために自主休校だ。
「やあ舞、学校をさぼっちゃ駄目だよ」
「休みたくて休んでいるわけじゃないですよ」
私は彩樹さんに向かい合うように腰を下ろした。彩樹さんはそれを見て、チャンネルを弄るのを止めた。リモコンを投げ、微笑みながら私を見つめた。
「弟君の看病らしいね。具合が悪いって?」
「疲れてたみたいですよ。慣れない場所で無理したせいで」
「そう、大変だね。彼は、ロボットに看病を任せる事も出来ないし」
肯きかけて、私は固まった。心臓が一瞬、本当に止まったのだと思った。私は今にも冷や汗の溢れだしそうな体を鎮めて、努めて冷静に言葉を返した。
「彼? 弟なんて、いませんよ」
「そう」
「そうですよ、ここ女子寮ですよ」
彩樹さんは顎に手を置いて、記憶を探るように首をひねった。その仕草がさり気無く、人間味がある。しかし、そんな事について考察している余裕はないのだ。彩樹さんが次に言う言葉を、私は作り笑いをしながら待っていた。
「辰哉君は舞ちゃんの弟じゃなかったっけ。あんまり記憶力に自信がないからなあ」
「辰哉……」
私は体を落ち着かせるために、大きく息を吐いた。堪えていた汗が一気に吹き出し全身が湿っぽくなったが、気持ちは楽になった。
「誰に聞いたんですか」
「さっちゃんだよ。やっぱり舞ちゃんの弟で間違いないね」
彩樹さんは満足そうに目を細めた。私は顔の汗を拭いながら、さっちゃんなる人物に思いを馳せた。さっちゃん、彩樹さんがそう呼ぶのは誰だったか。
さっちゃん、さ、さ、さりさ……。橘沙梨佐。
「さっちゃん!」
手酷い裏切りだ、さっちゃん。弟を売ったのだろうか。もちろん本人にそんな意図はないだろうが、きっと何も考えずに口から洩れてしまったのだろう。その様子が頭に浮かぶようだ。橘さんは誠実ではあるけれど、相当迂闊な人でもある。
「報告するんですか」
私は窺うように聞いた。もしかしたら、すでに学校側に連絡が言っているのかも知れない。あとは大人しく、退学になるだけだ。いっその事、それでもいい。なるようになれだ。
しかし、彩樹さんは心外だとでもいう風に下唇を突き出した。
「報告? すると思った?」
「しないんですか」
私はびっくりして彩樹さんを見た。ロボットは異変の起こった際に、学校側に報告する義務があるのだ。これはどんなロボットにも与えられている命令だ。反射といってもいい。痛いと思ったら手を引っ込めるように、何かが起こったら報告をするのだ。
「告げ口って嫌われるでしょ。それに僕は、女の子の味方だからね」
「命令違反ですよ」
「いいんだよ、たまには。僕、学校の運営側も気に喰わないし」
なんてことないように言う彩樹さんが信じられなかった。変わったロボットだとは思っていたが、これではまるで。
「おかしいと思う?」
私は正直に頷いた。
「どこか、回線が切れているんじゃないんですか?」
「おしいね、ちょっと違うんだな」
「正常に作動していない、とか」
「うーん」
彩樹さんは、当ててみろというように胸を反らした。私は彩樹さんの体を見ながら少し考えると、信じられない心持ちで呟いてみた。
「もとから、無かった?」
そんなはずはないと反応を窺う私に、彩樹さんは満面の笑みを浮かべた。
「当たり」
私は息を吸い込んだ。声を出そうと思ったのだが、驚きのあまり何も言えなかった。吸い込んだ息が、そのまま吐き出される。
「僕は欠陥品なんだよ。回線は足りないし、バグは見つかっているし、それに結構もろいんだ。もともとは、隼人や悠斗と同じような作りだったはずなんだけどね」
「欠陥……」
私は彩樹さんの姿を眺めた。何もおかしなところはないように見える。変わっているとは思っていたが、それは彩樹さんにある欠陥から来ているのだろうか。だからあれほど人間味があったのだろうか。ならば私は、それを欠陥と呼ぶ事は出来ない。
「個性って言えばいいんですよ。欠陥じゃあ語弊があります」
「ありがとう。君はやっぱりいい子だね」
そう言って頭をかく彩樹さんは、やはり人間臭かった。
辰哉の容体を見るために、私はロビーを発った。彩樹さんが付いていきたいと言ったので、共に辰哉の部屋へ向かった。もう、隠すことはないのだ。
女物の服が散らばる部屋の中で、辰哉は静かに寝息を立てていた。私達が入ってきた事にも気が付かなかったようだ。穏やかに眠る辰哉は、実際の年寄りも幼く見えた。私の後ろを追いかけてきた十一の辰哉と同じ顔だ。
私は辰哉の額に手を当ててみた。熱はもうないようだ。あとは、ゆっくりと寝て疲れを癒すだけだ。私はベッドの横に座り、彩樹さんにも座るように促した。
「やっぱり舞ちゃんと似ているね。男の子なのに」
彩樹さんは部屋に転がる椅子の一つに腰をかけ、不思議そうに言った。
「兄弟だからですよ」
「男女でこうも似るとは思わなかった。僕は姉妹しか見たことがないから」
そういうものだろうか。そうかも知れない。彼らはこの学校の女の子しか見たことがない。ロボット達も、私達と同じように閉じ込められているのだ。
「それにしても、大胆な事をするね。君も、君の友達も」
彩樹さんは辰哉を見ながら言った。私自身、大変な事をしでかしている自覚はある。誰かに見つかれば終わりだが、これ以上何をするべきか分からなかった。しかし卒業するまで辰哉を閉じ込めておくわけにもいかない。
「これから、どうすればいいんでしょうね」
私は溜息とともに漏らした。同じ事を、私は沢山の人に尋ねている。だが、何の手立ても見つかっていなかった。愚痴を言いたくはなかったが、つい口から溢れてしまう。
「いっそ、見つかった方が楽かとも思うんですよね」
そうすれば、二人で学校の外に出られる。どんなに辛くても、このままでいるよりはましかもしれない。
私が何気なく言った言葉だが、彩樹さんは奇妙な反応をした。目を見開き私を見つめると、僅かに開いた口をほとんど動かさずに尋ねた。
「本気で言っている? たちの悪い冗談?」
彩樹さんの予想外の態度に、私は何も返事を出来なかった。私を責める声に体が動かなくなる。詰めかけるように、彩樹さんは身を乗り出した。
戸惑う私に手を伸ばし、ほとんど肩に触れかけたところで彩樹さんは止まった。眉を顰め、私の様子を確認すると首を傾げた。私からは目を離さないまま、椅子に座り直し顎に手を当てた。
「知らない? もしかして無自覚?」
彩樹さんの言葉に、私は何も分からないまま首を振った。何も知らない。彩樹さんが何を言おうとしているのかも知らない。
「……だからか」
彩樹さんは苦々しげに一度唸ると、大きく息を吐いた。ロボットが息を吐くところを、私は初めて見た。
「舞ちゃん、僕はあんまり上手い事は言えないんだ。咲にも止められている。だからこれしか言えないけど、忠告するよ」
彩樹さんは一呼吸置いてから、私と目を合わせて低い声で言った。
「真面目な生徒は退学になったらいけない、何があってもね」