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 薄幸の美少女とは私のことです。異論は認めません。「薄幸」と「美少女」と、二つの言葉が連なった結果として、これ以上に私を体現する言葉はないのです。 

 × 

 私はこのたび、住まうべき場所を手に入れました。空まで高くどこまでも広い、恰幅の良い紳士のようなマンション。その三階角部屋、三○五号室。日当たりが良くて風通りも悪くない、冷暖房完備の理想郷です。 
 いいえ、ですが勘違いしてはいけません。ここは私の部屋ではないのです。あくまでも私はここに住まうだけの者。持ち主は他にいるのです。 
 三○五号室には、なんと部屋が四つもあります。ダイニングキッチンの居間、八畳もある和室、それに六畳の洋間が二つ。その上お風呂とトイレに玄関やウォークインクローゼットなど、贅沢の極みを尽くしたような部屋です。 
 私がこの三○五号室に来たとき、その半分も使われていませんでした。洋間は二つとも、扉を開けた形跡さえもなく、立派なキッチンは埃かぶっていました。ただ一つ、和室だけは物で溢れ返っていました。 
 はじめ、私はそこが畳の部屋であると気づけませんでした。部屋の片隅に、薄汚れた万年床があり、卓袱台が一つ置いてあり、あとはなんとも認識し難い物で埋め尽くされていました。部屋本来の床は見つけられません。それどころか、発掘でもできるのではないかと思うほど、部屋全体が盛り上がっているのです。 
 いかな私でもぎょっとして、部屋の主に尋ねてみました。これは一体なんなのでしょう。私の目には、がらくたの群れにしか見えません。 
 部屋の主は眉をしかめ、なんだかぼんやりとした声で言いました。 
「何だったかなあ。多分拾って来たんだと思うのだけど」 
 主の拾い癖というやつを、私はこのときはじめて目の当たりにしたのでした。 

 部屋の主だの持ち主だのと言っていますが、彼にも名前はあります。陽介さんというのです。歳は私よりも十歳上の二十三。新卒の社会人です。それでこのようなマンションに一人暮らしというのですから驚きです。親の金だと陽介さんは言いますが、それでは一体どのようなお金持ちなのでしょう。 
 よくよく見れば、陽介さんは確かに気品があります。細くしなやかな体つきに、なかなか涼しげな美貌をお持ちで、いつも背筋を伸ばして歩いておられます。穏やかで、毒気の抜けるような言葉づかいは、有り余るお金でもって何不自由なく育てられたからでしょうか。名前に似合わず陽光を忘れたような色白の肌も、温室育ちであることを窺わせます。 
 陽介さんは、きっと思うがままに育ったのでしょう。彼はちょっと、かなり、随分と変わった人です。 

 × 

 私と陽介さんの出会いは、ついさっきです。そうですね、腕時計の針が一回り戻ったくらい。ほんの、一時間かそこら前のことです。 
 その日は――といっても今日なのですが、とにかくその日は雨が降っていました。私はやんごとなき事情により、しばし公園のきのこの家に住みついていました。きのこの家とは、きのこを模した遊具です。大きく入口が一つ、小さく丸い窓が二つ。入口からきのこの家に入りますと、椅子もテーブルも用意されていて、きちんと屋根もついています。 
 きのこの家の良いところは、なんといっても雨がしのげるというところです。季節は初夏。凍死する心配のない気候とはいえ、いつまでも雨に打たれていては風邪をひいてしまいます。私はきのこの家のありがたさを感じながら、椅子に座ってぼんやりと考え事をしていました。 
 何を考えていたか――今は遠い家族のこと。不甲斐ない父と、亡き母のことです。ああ、父は今どうしていることでしょう。雨に濡れてしょぼくれているのなら、いい気味です。母は天国で嘆いていますよ。 
 外の雨は降りやまず、空は私の気持ちのように淀んでおりました。彼が現れたのは、そんな日暮れでした。 

 私一人のきのこの家に、突如闖入者が。子供用の小さな入口から、狭そうに肩をすぼめて男の方が入ってきたのです。ちょっとそこらを歩いていたと言いたげな身軽な服装に、あまり目を引くところのない、どことなく地味さを窺わせる方です。彼は黒髪をつやつやとしとらせ、雑巾のように絞ってあげたいと思うほどに体を濡らしていました。水も滴るいい男、などとくだらないことを言ってはいけません。濡れている彼は、どちらかと言えばみすぼらしかったです。 
 外からは、ひときわ大きな雨音がします。彼は疲れ切ったように息を吐き、頭を振りました。そうしてやっと人心地ついた、そんな様子で顔を上げ――私と目が合いました。 
 彼はとても驚いたようです。先客がいるということにも、もちろん驚いたでしょうが……。多分それ以上に、私の姿に驚いたのではないでしょうか。 
 私、磨けば光る玉のような美少女です。しかし今は、その美貌を覆い隠すように伸びてしまった髪。一着しか持っていないため、自然と汚れて擦り切れて粗末な服。栄養状態が芳しくないため、やせ衰えた体。まるで浮浪児の様ですが、まさしく浮浪児でした。 
「こんにちは」 
 何を思ったか、なんとも気の抜けた声で彼は言いました。挨拶をされたら返すのが常識です。私も頭を下げ、返事をしました。 
「こんにちは」 
「勝手に入ってごめんなさい。誰かがいるとは思わなかったんだ」 
「かまいません。ここはきのこの家です」 
 きのこの家はみんなの家。お子様たちのたわむれるべき場所です。もちろん目の前の青年はお子様に含まれません。どう考えても年上です。私よりもずっと年上ですが、きっと父よりはずっと年下でしょう。具体的には……見てとれません。大人びても見えますし、子供っぽさも感じます。 
「外はすごい雨でね」 
 彼はきのこの丸い窓から外を眺めて呟きました。窓の外は風が吹き、大粒の雨が音を立てて落ちてきています。きのこの家の中にも、風の向きによって雨のしずくが吹きこんできてしまい、私も彼もちびちびと濡れています。 
「傘が飛ばされてしまったんだ。雨宿りできるところもないし、どうしようかと思って」 
「それはお気の毒さまです」 
 そこで会話は途切れてしまいました。どうも、共通の話題がないのは仕方ありません。私たちは初対面で、互いの名前さえも知らないのです。 
 無言です。無言の時間がただ流れて行きました。雨の音を聞きながら、狭ききのこの家に見知らぬ男女が二人。実に居心地の悪い思いです。先方もそう思っているのでしょうと窺って見ると、目が合った彼は嬉しそうに手を振りました。犬や猫を可愛がるような目つきです。確かに私は、子猫のように愛らしい娘ではありますが……。彼のなんとも能天気そうな瞳には、なぜだか腹が立ちます。 
 いったい、なんと幸せそうな人なのでしょう! 
 先だっての私の不幸を思うと、世の幸せは全て憎らしくてありません。この方は、何も悩むことなくへらへらと笑っているのです。雨にぬれても、温かい風呂に入って服を乾かして、あとはのんびりと眠るだけ……。ああ、うらやましい。 
 雨足は強くなったり弱くなったりを繰り返していました。空は黒々とした雲がうずを巻き、攻撃的な雨を降らしたかと思いきや、たまにふっと雨粒を小さくするのです。止むのかな? 止まないのかな? きっと世間の人々は、空模様に一喜一憂していることでしょう。 
 目の前の彼もまた、同様に気を揉んでいました。 
「今日中に止まなかったらどうしよう」 
 腕を組み、困ったなあと首をかしげます。 
「雨の中、濡れて帰るしかないね。ねえ? 僕たちは運が悪かった」 
 返事を求めているのでしょうか。尋ねるようなその口調に、私は黙って頷きます。 
「もう時間も遅いし、君の親も心配しているんじゃないかな。早く家に帰りたいね」 
 何の気もなしに、彼はそう言ったのでしょう。けれど私は、はっと口を覆い、思わず鋭い声を上げました。 
「いいえ」 
「いいえ?」 
「私は帰りません」 
 私の言いたいことが読みとれないらしく、彼は眉間にしわを寄せました。 
「何か嫌なことでもあったのかな? 親とけんかしたとか」 
 けんか……けんかすらできませんでした。あの父は、憎らしくもその前に逃げ出してしまったのです。父が今目の前にいたのならば、糸のように細い縁をはさみでちょんと切ってしまうことでしょう。父の逃げ足の速さが、口惜しくてなりません。 
 むっと口を結んだ私を、彼は違うように捉えたようです。心配そうに、親しげな声をかけてきます。 
「いやね、他人の僕が言えたことでもないんだけどさ。それならすぐに帰って仲直りをした方が良いよ。きっと君のこと、心配でたまらないはずだよ。いつまでも家に帰らない君を、不安になりながらずっと待っているよ」 
「家は」 
 私は小さく呟きました。心は、少し迷っていました。果たして見ず知らずの青年に、こんなことを話していいものでしょうか。自慢できることでもございません。それなのに口を開いてしまったのは――雨のせいでしょうか。 
「家はありません」 
 彼は目の前がぼやけてしまったような顔で、私を見ました。私はぎゅっと両の手を握りしめます。 
「私には家がありません。家族とも離ればなれです。私は今――ここに住んでいます」 
 しばらく返答がありません。じっと私を見つめているのです。信じられないと言いたげに、幻でも見るように。 
 見られるばかりでは心地悪いので、私も同じく彼を見つめます。濡れそぼった地味な青年。よく見れば、顔の造作は繊細で美しいかもしれません。唇は僅かに青ざめています。夏の雨といえども、さすがにずぶぬれでは寒いのでしょう。特にこの方、体つきも細やかで白くて軟弱そうです。 
 はっとするほど強い雨が、きのこのかさを叩きました。きのこのかさはきのこの屋根。頭上から小さな石をぶつけられたような、そんな音が響いたとき。 
「君は」 
 彼の声は夢見心地。なんといいましょうか、生き生きとしているような、興奮しているような。とにかく、感激しているようでした。 
「君はきのこの妖精なのか!」 
「違います」 
 その発想はありませんでした。 

 がっかりさせてしまいました。 
 彼は肩を落として黙りこみ、それっきり何も喋りません。代わりにため息ばかりが出ています。 
 分かります。期待したあとの落胆とは大きなものでしょう。しかしその期待、さすがの私も応えることができません。妖精のように愛らしい、だけでは物足りないものです。 
 そうこうするうちに、空模様が少し変わってまいりました。今まで叩きつけるように乱暴だった雨音が、優しく撫でるように変わったのです。止みこそはしないものの、随分と小雨になってきたものです。 
「僕は帰る」 
 彼はそう言って立ち上がりました。そして私に一瞥を与えると、そのまま狭き穴から出て行こうとします。いいえ、しかしちょっと待ってください。 
「このまま帰ろうというのですか?」 
「雨が弱まった今が好機だ。残っていたって仕方がないよ。それとも帰っちゃいけないのかな?」 
「いえいえ、それはかまいません。ただ、ここに家を失くした美少女がいるのです」 
「そうだね、君も元気で」 
 彼はにこりと笑いました。なんですか、笑顔で済まそうというのですか。そんなわけにはまいりません。 
「袖すりあうも多生の縁。ここに困った少女がいるというのに、手を差し伸べずに去るとは言わせません」 
「困っているの?」 
「家を失くし、家族もいない。お金も食べ物もなくて、これで困っていないというのですか」 
 私は両手を握り合わせ、さめざめと言いました。彼はそれを見て、少し困惑したようです。 
「いやしかし、君はここに住んでいると言ったじゃないか。このきのこが、君の家じゃないのか?」 
「好き好んで、こんなところに住むものですか!」 
「そうなのか? 僕はてっきり、好きで住みついているんだと……変わった人もいるんだなあと思ったんだけど」 
 変わっているのは彼の方です。いったい、どのような常識をお持ちでしょうか。私はうんざりとして、息を吐きました。こんな奇妙な思考回路をお持ちでは、遠回しに期待をしても無駄というもの。 
 そうです、正直な言葉の方がずっと彼には通じるでしょう。 
「救いの手を差し伸べてほしいのです。ほんの少しのお心――お金ください」 
 もしくは食べ物でも構いません。日持ちをするならなおのことよし。私は期待を込めた目で、じっと彼を見つめます。 
 彼は迷うような表情を浮かべます。ほんのわずかの逡巡――そののち、とんでもないことを。 
「それなら僕が拾ってあげようか。僕の家に住む?」 
「いいえ、いりません。お金ください」 
「君なら小さいし、邪魔にはならないだろう。犬猫みたいに手間もかからないし……かからないよね?」 
「そこまでしていただく気はありません。お願いですから、金目のものを置いて行ってください」 
 うーん、と彼が唸りました。私も唸ります。どうにも会話がかみ合いません。 
「どうして僕の家には来たくないの?」 
 私の方こそお尋ねしたいです。どうして私を家に連れて行きたいのでしょう。私ももう十三歳、多少穿った見方もしてしまいます。 
「だって、あなたは男の人ではありませんか」 
「そうだけど……」 
「そして私は美少女です。年頃の乙女です」 
 彼が怪訝な顔つきをします。一体どういう意味でしょうか。どういう意味でしょうか! 
「いや、さすがにおかしなことを考えたりはしないよ。だって君、まだ小学生?」 
「中学生ですよ!」 
 なんと失礼な方でしょうか。私が子供っぽく見えるというのですか。へらへら笑っていられるお子様とは違うのです。 
 などと私が腹を立てているにもかかわらず、彼はおかしそうに笑います。まるで、小さな子供でも見るような目で。大変に不服です。不愉快です。 
「分かった分かった。君は中学生だ。でも、何もしないから大丈夫だよ」 
「それなら、どうして私を拾おうというのです」 
 私はむつりと膨れ面をしました。彼の言葉から、態度から、その表情から、私を子供扱いしているのが丸わかりです。 
 彼は私の質問に、わずか首を傾げました。そして、ぼんやりとした声で言いました。 
「落ちていたからかなあ。とりあえず拾っておこうかと」 
 唖然。 
 どうやら子供扱いすらもされていなかったようです。私は犬猫、もしくは物。彼にとって私は、大きな落としものだったようです。 

 私が彼の手を取った理由は一つです。悔しいからです。私の魅力も分からない朴念仁。絶対、絶対私を認めさせます。小さな子供だなんて思ったこと、後悔させてみせます。 
 そんな私の心を、彼は知りません。狭いきのこの家の中、彼について行くことを承諾した私に笑顔を向けます。 
「僕の名前は坂上陽介。よろしく」 
「私、日下伊織と申します」 
 こうして私は、陽介さんに拾われることとなりました。 



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