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 ここで、私の身の上について少しお話させてください。陽介さんのマンションに向かう道々、彼にお話ししたことと同じことです。そう長くはないのでご安心を。 
 私は父と二人暮らし。小さなアパートに、詰め込まれるように生活していました。母はいません。私が幼いころに亡くなってしまいました。 
 父はやくざな仕事ばかりしていました。と言っても、もちろんあの恐ろしいやくざではありません。その日暮らしに糧を得る、なんとも不安定な商いばかりをしていました。 
 そんなわけですから、日々の生活にはとても困窮しておりました。食べるもの、着るもの、光熱費や学費や……。母がいない分、全て私が引き受けていました。父は頼りになりません。 
 慎ましやかな生活。私は貧乏と苦労を強いられながらも、雨風に耐える花の如く凛々しく生きていました。そんなある日。 
 父が言いました。 
「一文無しになっちゃった。この家も手放さないといけないよ。あと、怖い借金取りが来るからお父さんは逃げないと。いや、失敗失敗」 
 父は頭を掻くと、そのまま風のように去って行きました。私はその言葉を理解するのに数刻、驚きを表すのに、さらに時間がかかりました。 
 いくら貧乏とはいえ、家を失うのは初めての経験です。この衝撃、この怒りとも呆れともつかない、形容しがたき思い。そして思いをぶつけるべき父は、すでに逃げ出したあとでした。 
 父母ともに、親類縁者の類は聞きません。私はこうして行き場を失ってしまいました。 
 私は友人の家でしばらくお世話になりました。友は私のことを広い心で受け入れてくれました。おばさまは、私の境遇を憐れんで親切にしてくれました。それというのも全て、私の高い信頼のなしえるわざです。このときほど、清廉潔白に生きてきた私自身を誇ることはありませんでした。 
 ですが……そんな生活を許し難かったのは私自身です。私は彼の人たちに返せるものなど何もありません。優しければ優しいほど、申し訳なさが先に立ちます。 
 結局私は、友人宅も出て行きました。そして一人、公園に暮らします。今では、どうしてもお腹が減ったとき、とてもとてもお風呂に入りたいときだけ、友人の家に邪魔します。それくらいは、許されても良いでしょう。 
 そんな生活が、もう一月以上も続いていました。 

 私の話を聞き終えた陽介さんは、欠伸を噛みつつ「大変だねえ」と感想をもらしました。これほど適当な「大変だねえ」は、私、生まれて初めて聞きました。まったく何の感慨も得なかったのでしょうか。衝撃的です。 

 × 

 私は六畳の部屋を、まるごと一つ与えられました。家具の類はなにもありませんが、押し入れや天袋まで付いています。友人の家でさえもされなかった厚遇です。 
 お布団や机は、陽介さんのお下がりをいただきました。陽介さんの和室は四次元ポケットです。欲しいと思ったものは何でも引っ張り出せるし、いくらでも詰め込む事が出来ます。代わり、そのお布団は湿っぽくて汚くて埃っぽくて、そのままでは使えたものではありませんでしたが。丸一日は太陽に当てなければいけません。 
 そんなわけです。私と陽介さんの生活は、陽介さんの部屋の掃除から始まりました。 
  
 陽介さんの家にお邪魔したその夜に、不躾とは思いつつもお部屋に手を入れさせていただきました。だって汚いんですよ。私の美的センスでは、どうしても耐えられませんでした。 
 はたから見ても信じられない陽介さんの部屋ですが、実際に手をつけてみるとなお信じられません。片付けても片付けても、一向に片付かないのです。目につくところからごみらしき物を放り出します。穴でも掘るような気持ちです。見る間にごみ袋は一杯になりますが……陽介さんの部屋は相変わらずです。 
 しかし、いったいこのごみの山は何なのでしょう。お菓子の袋やペットボトルなどは分かります。脱ぎ捨てられた衣類なども、ずぼらな方なら仕方ないでしょう。しかしそれ以上に多いのが、何を求めて転がっているのか分からないがらくたたちです。 
 取っ手のないやかん、欠けた植木鉢や、はらわたの見える犬のぬいぐるみ。鳥かごや虫取り網や、果ては自転車のタイヤまで。部屋の中に転がしておくものではありません。 
 陽介さんからいただいたごみ袋が、三つもいっぱいになったとき、私は疲れて手を休めました。その場にへたりと座り込み、一向に変化のない部屋を眺めます。隅の方にあるあのお布団は、いったいいつからああして敷かれているのでしょうか。水分を含んでぺたんこですし、いったい何をこぼしたのか茶色く染みまでついています。こんなところで生活していては、まともな人間には育てません。きれいな心はきれない部屋から。ああ、それなのに挫けてしまいそうです。 
「伊織ちゃん」 
 背後から、陽介さんの声がしました。私ははっとして振り返ります。 
「もう遅いし、ごはん食べて寝よう。片付けはいいよ」 
 というと、陽介さんはこの部屋で眠るつもりでしょうか。ううん、耐えがたいです。 
 私の渋い顔に、陽介さんは苦笑いです。 
「まあ、どうせ僕の部屋だし。それよりも、お腹減っただろう? 何が好きだか分からないから、とりあえず寿司をとってみたんだけど」 
 お腹が空いているかいないかと聞かれれば、もちろん空いています。部屋の片づけとごはんと、どっちが大切かと言われればもちろんごはんです。私は素直に頷きました。 
「お寿司は好きです。さびぬきです」 
「わさびは抜いてもらってないんだ」 
 陽介さんが、「しまった」と頭を掻きました、 
「伊織ちゃんはまだ子供だもんな。食べられないか」 
「子供だからじゃありません。人として、わさびとは苦手なものなのです」 
 陽介さんの、いちいちの子供扱いには腹を立てずにはいられません。私は実に機嫌が悪く、膨れ面をしました。 
「でも、お寿司は食べます」 
 空腹では、何ものもおいしくいただけます。私は部屋の掃除などあっという間にあきらめて、陽介さんとともに食卓に着きました。 
 お寿司、おいしかったです。この日はそれでおしまいです。 

 × 

 次の日、陽介さんは早くに出かけて行きました。お仕事に行くのです。居候となった私は慎ましく、陽介さんをお見送りします。 
 出かけ際の玄関で、陽介さんは私に合い鍵を渡しました。 
「家を出るときは、ちゃんと鍵かけて。失くさないでね」 
 そう言うのです。 
 なんと警戒心のない人でしょうか。私は渡された鍵を握りながら、陽介さんを見上げました。 
 もしも私が悪い人だったら、陽介さんの家は滅茶苦茶になります。私が誠実な人間であるからこそ良かったものの、こんな性格ではいつか痛い目に遭ってしまうでしょう。 
 私の複雑な思いを、陽介さんは太平楽な笑顔で受け止めました。この方、きっと何も考えていません。 
「じゃあ、行ってくるね」 
 陽介さんは私に手を振ると、玄関から出て行きました。私は音を立てて閉まるドアを眺めながら、もう見えなくなった陽介さんに手を振り返します。 
 なんだか奇妙な心地です。誰かのお出かけを見送るなんて、いつ以来のことでしょうか。 

 ともあれ、陽介さんのいないこの家で、私のするべき事は一つです。 
 部屋を片付けます。ああ、いえ、その前にお布団を干します。 
 私はベランダに、私のお布団と陽介さんのお布団を並べて干しました。陽介さんのお布団は、部屋から引きずり出すのに随分と苦労させられました。お布団の上にも下にも、たくさんの物があるのです。よくもまああんな場所で眠れるものです。 
 今日は日差しが強い、上天気です。雲はよく流れ、風がとても気持ちいい。昨日の雨なんて嘘のようです。お布団もきっと、ふわふわになってくれるでしょう。 
 それからは、無心に陽介さんの部屋を掃除しました。もはや意地です。絶対にきれいにしてみせます。絶対に! 

 夕刻、陽介さんが帰ってきたとき、私は疲れ切っていました。干したお布団も出しっ放しです。そんなことにも気がつかないくらいにくたくたで、ダイニングに座り込んでいました。 
 陽介さんは私を見て驚きました。そして、部屋の有様を見てさらに驚きました。 
「伊織ちゃん! 君、もしかして一日中掃除していたの?」 
 微かに顎を引きます。その通りです。陽介さんの部屋は怪物のように手強かったです。朝から日が暮れるまで働き続けて、ようやく物がなくなりました。 
 陽介さんは、すっきりと片付けられた部屋を見て、言葉を詰まらせました。感動しているに違いありません。そうでなければ、報われません。 
「すごいなあ。畳を見たのっていつ以来だろう」 
 そして私を見て、ちょっとだけ口を曲げました。笑っているような、困っているような。曖昧な顔で言います。 
「だけど、ちょっともったいない気もするかな。部屋にあったもの全部捨てちゃったの?」 
 ああ、と私は溜息をつきます。陽介さんの一言は、私を余計に疲れさせてしまいました。一言で表せば、ちょっとがっかり、です。 

 ごはんにしよう、と陽介さんは言いました。大賛成です。思えば私、朝ごはん以降何も食べていません。 
「何が食べたい? 何を出前取ろうか」 
「出前ですか?」 
 私は首をかしげます。出前なんて贅沢なこと、そうそうしても良いものではありません。昨日お寿司を食べたのだから、今日は家で慎ましやかに過ごしましょう。 
「家にあるもので良いですよ」 
「何もないんだ」 
「なければ、何か作りましょうか。少しくらいなら料理もできます」 
 貧乏生活に料理は付きものです。いかに安い食材で、どれほどおいしくお腹を満たすか。私はその道の、プロフェッショナルです。 
 そう思って、冷蔵庫を開けさせていただきました。キッチンの端にある、大きくて白い冷蔵庫です。中は……。 
 期限切れの牛乳がありました。一か月前のものです。あとは、冷凍庫に氷がありました。それと、アイスが。 
 私は頬に手を当てて、少し考えました。この冷蔵庫は、いったい何のためにあるのでしょう。これでは、ただの大きな箱です。電気代を食うだけ、よりもったいない箱です。 
「何もないって言ったじゃないか」 
「限度があります」 
「そう言われてもねえ」 
 今朝の朝食は、昨日のお寿司の残りだったから気がつきませんでした。こんな非常識な冷蔵庫があるなんて、私には予想もつきません。 
 ちなみに、他の戸棚も開けて調べてみましたが、砂糖と七味唐辛子しかありませんでした。 
「ね? 出前取るよ。ピザで良いかな」 
 陽介さんは勝手に電話をしています。私は呆れて呆れて、呆然と口を開くだけです。 
 いったいこの方は、この先どうやって生きて行けるのでしょう。色の白さも不健全なせい。そう思うと、胸の奥がちりちりと焦げ付きます。 
 せめて、日々の食事だけでも温かく。 
 私の、次にするべき事が見つかったようです。 

 × 

 陽介さんは二十三歳の社会人です。とは先にも述べたとおり。 
 はじめにそう聞いたときは、やや意外な気もしました。もっと年下に思えます。だけど考えてみれば、大学生と聞いても意外に思ったでしょう。もう少し年上に思えます。陽介さんの年齢を知った今でも、今一つ掴めません。大人っぽくて子供っぽい、実に曖昧な方です。 
 私は中学生です、ともお伝えしました。中学も二年生に上がったばかり、初々しくも大人の魅力を持つ年頃です。 

「伊織ちゃんは中学生なんだよね」 
 結局ピザの出前を取り、夕食の席に着いたとき。陽介さんがふとそう言いました。 
「学校はどうしたの? 行ってないってことは……ないよね」 
 カレーピザに手を伸ばしていた私は、思わずその姿勢で固まってしまいました。やっぱり、避けては通れない話題の様です。 
「行ってないってことはないですが」 
 私の目は、上下上下左右、あちらこちらへ行ったり来たり。どうにも陽介さんを避けようと、あちこちへ目をやります。 
「行っているということもないと言いますか」 
 確かに、私の通うべき学校はあります。出席名簿にもきちんと名前が載っていますし、席もあります。ですが……。 
「行くこともあると言いますか、最近は行っていないと言いますか」 
 私の声はどんどん小さくなっていきます。最後の方など、陽介さんは聞き取れたのでしょうか。 
 それがどうかは分かりません。ただ、陽介さんは呟くように「そう」と答えただけでした。それ以上、何も聞かれませんでした。 

 × 

 次の日は、食材を買いに走りました。お金は、申し訳ないながらも陽介さんからいただきました。その翌日は、家中の洗濯物をして、さらにその翌日は――。 
 そうして、陽介さんとの生活は過ぎて行きました。陽介さんの堕落した現代的生活は一変。私の腕により、実に健康的な日々を過ごしています。それでも陽介さんの色の白さは変わらず、不健康で軟弱そうな体も変わりません。生まれつきなのでしょうか。 
 一心に尽くす私を、陽介さんは母のように慕うべきです。それなのに、相変わらず陽介さんは私を子供扱いです。その点については私、大変不満を抱いています。 

 × 

 そうそう、陽介さんの奇妙なくせ、拾い癖について少しお話します。 
 陽介さんは、道に落ちた目立つ物を何かと拾ってきます。それは粗大ごみだったり、落としものだったり、植物だったり生き物だったり。節操がありません。なぜそんなことをするのか、と尋ねると、陽介さんは頬を掻きながら答えます。 
「なんか、もったいないような気がするんだよ」 
 困った癖だと思いますか? 私は思います。そんなわけで、私は陽介さんの拾って来たものを片っ端から捨てていきます。 

 × 

 こんな不名誉な話を聞いてしまいました。 
 今朝、陽介さんが拾ってきた三輪車を捨てに行ったときのことです。持ちにくさに四苦八苦。おまけに、重いのです。 
 空は青く、太陽が憎らしいくらい輝いていました。夏の暑さが身にしみるこの季節、ごみ捨て場にたどり着いた私はすっかり汗をかいていました。 
 三輪車は、きちんと粗大ごみです。これから回収車を待つうらびれた三輪車を、私は達成感を持って眺めました。 
 昨晩の陽介さんを思い出します。三輪車を片手に、お帰りになった陽介さん。彼はその粗大ごみを、私へのおもちゃとして提供したのです。「子供が喜ぶだろう」と言いながら。 
 確かに私、まだ大人とは言い切れません。ですが、ですが三輪車は「子供用」ではなく、「幼児用」ではないですか! 
 陽介さんの思考は分かりません。そもそも、拾って来たものをプレゼントしようなんて。おまけに壊れています。タイヤが一つなくなって、二輪車になってしまっています。 
 青空の下で悶々としていると、同じマンションに住むらしき二人のおばさまがやってきました。きっとお二人も、ごみを捨てにやってきたのでしょう。しつけの届いたよい子の私は、笑顔で挨拶をします。 
「おはようございます」 
「あ、あら。おはよう」 
 突然の挨拶に、おばさま方は驚いた様子で応えます。そしてすぐに、私から目を逸らされました。何でしょう、いけないものでも見てしまったかのように。 
 おばさま方は二人、ひそひそと話をします。小さな声でひそやかでしたが、だけど聞こえてしまいました。 
「ほら、あの子。坂上さんところの」 
「どういう関係かしら」 
「まさか、ロリコン?」 
 聞こえてしまったのです。 

 その晩、お帰りになられた陽介さんに、私はまず真っ先に申しました。 
「私、ここを出ていきます。これ以上のご迷惑はかけられません」 
 陽介さんは首を傾げました。何度も瞬きをしながら私を見つめます。 
「どうして」 
「陽介さんの不名誉になってしまいます」 
 ぎゅっと唇を噛みしめた、その場所は玄関です。「こんな場所ではなんだから」と陽介さんが言います。それで私たちは、ダイニングで夕食を食べながらのお話となりました。 
「聞いてしまったのです」 
 私の手による見事な食卓を囲みながら、話は続きます。 
「陽介さんが、ロリコンであると」 
「ロリコン?」 
 さすがの陽介さんも驚いたようでした。そうなんです、ロリコンなんです。 
 ロリコン……それ自体は個人的な嗜好です。悪いこととは申しません。私、ロリータとするには多少年長ではありますが、魅惑的な美少女です。こんな私に心奪われるのならば仕方ないことです。 
 ですがロリコン。その言葉自体が、実に悪意に満ちています。変態趣味、とその言葉の裏に潜んでいるのです。 
「私のせいで陽介さんがそう思われてはいけません。居候の分際で、迷惑をかけるわけにはまいりません」 
 私、ご飯には手をつけていませんでした。そんな気分にはなれません。陽介さんを見れば、意外にも彼の食事も手つかずでした。 
「明日にはここを出て行こうかと思います。お世話になりました」 
 陽介さんの心を陥落させるという志半ば。口惜しい思いがないわけではありません。陽介さんは一向に私になびかず、淡々としておりました。しかしそれ以上に、陽介さんが悪く思われるのが嫌なのです。胸のあたりがもやりとしたもので満ちてしまいます。 
「いや、いや」と陽介さんが言いました。珍しく慌てた声です。 
「いや、行かなくていい。僕はそんな噂、気にしないよ」 
「ですが、私が気になってしまいます。私のせいで、陽介さんが不名誉です」 
「いいんだ。そんなことはいいんだよ」 
 陽介さんは頭を掻きました。言葉に迷っているようです。テーブルの上を見渡して、唇を噛みました。難しい顔です。顔を顰めた陽介さんに合わせて、私も顰め面になります。 
「だって伊織ちゃんがいなくなったら、僕は毎日何を食べればいいんだ」 
 私はしばし、言葉を返せません。今までの陽介さんの生活はひどい物でした。掃除しない、洗濯しない、炊事しない。現代文明に依存する典型的な若者です。 
 それでは、私は陽介さんにとっての家政婦でしょうか。ただの居候では気分が悪いので、そう思っていただければ幸いです。 
「では私、ここにいていいんですか?」 
「いいよ、伊織ちゃんが居たいと思うなら。ずっと居てくれても構わない」 
 陽介さんは再び頭を掻きました。視線は私から逸れて、どことなく照れくさそうな表情で。いつもぼんやりとした陽介さんのそんな顔、私ははじめて見ました。 




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