<3>

 ある日のことです。 
 陽介さんが、また拾ってきました。今までで一番大きくて、一番厄介なものです。 
「ただいま」との声を聞いて、玄関まで迎えた私は陽介さんの連れているものを見て叫び声をあげました。 
「お父さん!」 
「伊織!」 
 返答代わりにそう言ったのは、陽介さんの横に立つくたびれた中年の男性でした。父です。擦り切れたコートに無精ひげを生やして、禿げ散らかされた頭は落ち武者のようになってしまっています。 
「お父さん?」 
 陽介さんは私を見て首をかしげます。いえいえ、首を傾げたいのは私も同じです。 
「陽介さん、この人をどうしたんですか」 
「落ちてたから、拾って来たんだよ」 
 私は両手を頬に当て、しばし絶句。まさか私と同じように拾われてくるなんて。これも親子の縁というのでしょうか。愕然。 
「拾われちゃったよ」 
 照れくさそうに言って頭を掻く父が、憎らしくてたまりませんでした。 

 私と父とは卓袱台を挟んで向かい合い、陽介さんはあまり興味もないように、少し離れて座っていました。場所は、きれいになった陽介さんの部屋。卓袱台には湯のみが三つありますが、誰も手をつけていません。 
「どこに行っていたんですか」 
 私の口から出てきたのは、思わぬ低い声でした。私自身が思っていた以上に、父に対する怒りがあったようです。しかし父は、何食わぬ顔。 
「いろいろと。北へ行って襟裳岬を見てきたり、南へ行って屋久島の杉の木を見たり。いや、思わぬ人生経験だった」 
「借金はどうしたのですか」 
「いまだ借金まみれだよ。お金があるといいねえ」 
 能天気に笑います。呆れて物も言えません。 
 父はこんな人なのです。いつもいつも勝手ばっかり、行き当たりばったり。何があっても深く考えないし、何もなくても深く考えません。かといって浅く考えているわけでもありません。何も考えていないのです。甲斐性なしという罵り言葉が最も似合う男ですが、罵っても堪えないので言うだけ無駄です。 
「私がどんな暮らしをしていると思いですか」 
 父は辺りを見回しました。この、陽介さんの部屋。父は思わず息を吐きました。 
「なかなか、いい暮らしをしているじゃないか。父さんはびっくりだ」 
 ああ! もう、この父は! 
 私は胸を掻きむしりたい思いです。いいえ、父の胸を掻きむしってやりたい。 
「この、私がいったいどんな思いで過ごしていたか」 
 思わず立ち上がると、父を睨みつけました。私の声、震えています。肩もわなわなと震えます。父は驚いた様子で、私を見上げます。 
「あなたがいなくて、私がどれだけ苦労をしたか」 
 いけません、涙が出そうです。言葉は途切れ途切れに、息は絶え絶えとしています。その場に立っていることさえ苦しいです。胸が、苦しい。 
「分からないですか? 分からないですよね。あなたには、分からない!」 
 そう叫ぶと、私は父や陽介さんに背を向けました。体中には、奇妙なほど力が入っていました。両の拳はぎゅっと握りしめ、肩は怒らせたまま、私は駆けだします。そうして、私は足音も荒々しく陽介さんの家を飛び出しました。 
 残された二人は、呆気に取られていたでしょうか。分かりません。そんなもの、見る余裕もありませんでした。 

 × 

 私はぐい、と腕で目元をぬぐいます。 
 小さくて固い椅子に腰をかけ、息を吐きました。すると今度は、今までに入っていた力が全て抜け出した気分です。私は疲れて疲れて、またはらりと涙をこぼしました。 
 ここは、懐かしいきのこの家です。小さくて、冷たくて、風が遠慮なく吹きこんできます。夏の湿った風です。どこからともなく、雨の匂いも感じました。 
 父は、私がこんな場所に住んでいたことを知らないでしょう。きっと、想像もしないに違いありません。そう思うと、悔しいやら情けないやら。ため息が出ます。今日は何度目のため息でしょうか。幸せも全速力で逃げて行ってしまいます。 
 私はぼやけた瞳で、窓の外を眺めました。空は薄いねずみ色です。これは日暮れが近いからでしょうか。それとも、空を覆い始めた雲のせいでしょうか。 
 もうすぐ雨が降ります。夕立が。 

 × 

 私一人のきのこの家に、突如闖入者が。童子用の小さな入口から、狭そうに肩をすぼめて男の方が入ってきたのです。彼は絞ってあげたくなるくらい体を濡らしていました。 
「やあ、雨が降って来ちゃったね」 
 彼は――陽介さんはそう言って微笑みました。 
「どうしたんですか!」 
 私はびっくりして、そう声を上げました。 
「どうしてこんなところに、どうしてこんなに濡れて、どうして陽介さんが」 
 ああ、言葉になりません。分からない事はたくさん。言いたいことが一つに絞れません。 
「君をね、探していたんだ」 
 陽介さんが頭を振り、きのこの家の椅子に腰かけました。テーブルをはさんで、私と向かい合うように。 
「いろいろと回ったんだけど、見つからなくて。そうしているうちに、雨が降って来ちゃった」 
 私は両手で頬を押さえました。陽介さんにこんなに迷惑をかけてしまって、私は悪い子です。心の芯が、冷めていきます。 
「雨が降ってから、思い出したんだ。思えば僕が伊織ちゃんと会ったのも、雨の日だった」 
 私は微かに顎を引きます。忘れもしません、雨の日。こんな雨の日です。 

 陽介さんはしばらく、何も言いません。私も黙っています。無言です。雨の音だけが耳に響きます。ざらざらと、砂を転がすような音でした。 
「伊織ちゃん」 
 陽介さんが、ふいに私を呼びました。反射的に顔を上げると、前髪を湿らせた陽介さんが見えます。 
「前に、友達の家を出て行ったと言ったよね」 
 唐突な質問です。私は陽介さんの意図が分からず、困惑の瞳だけを返します。 
「学校にも、行ってないんだよね。それはさ……」 
 陽介さんが、私から目を逸らしました。 
「お父さんのことが原因なのかな。……お父さんのことで、伊織ちゃんが悪く言われたりとか」 
 私は、私を見ない陽介さんを眺めながら、何度か瞬きをしました。私の顔は、呆けたように力なく、口は締りなく開いています。 
 陽介さんの言いたいこと、分かります。私が、苛められているのではないか。私が学校で、友達に悪口を言われているのではないか。それくらい、分かります。 
 私は首を横に振ります。 
「いいえ」と一言、短く答えました。それから、少しだけ迷ってから続けます。 
「いいえ、みんな優しい人たちです。私の友達も、友達のおばさまも、学校の先生も。私の周りの人は、みんな親切でした」 
 私は両手を膝の上で握りしめました。一度息をのむと、まだ言葉が溢れてきます。 
「みんな、私に同情してくれました。大変だねえって、頑張ってねって。できることなら、なんでも手伝ってあげるからねって。そう言ってから、必ずこう続けます――あんなお父さんで、大変ねえ。駄目なお父さんね、悪い人ね」 
 私への同情は、父への罵倒と一組です。仕方ないことです。だってあんな父です。 
 私は口を曲げます。胸の奥からこみ上げてくるものは、いったいなんでしょう。今にも溢れだしそうで、留めることができません。胸が苦しいです。辛いです。 
「私の父は駄目な人です。それでも、私はあの人への悪口が許せません。父は、父はあれでも私のたった一人の親なんです。父は私を愛して、育ててくれました。惜しみない愛を与えてくれました。それを私は、よく知っています」 
 息を吸い、吐きます。眼前がぼやけます。私の瞳は、どうしようもなく潤んでしまっていました。 
「私、それで逃げ出してしまいました。私のお父さん、悪く言わないで欲しいのです」 
 耐えきれず、私は顔を覆いました。嗚咽が漏れます。絶え間なく。 
 陽介さんは我慢強く、私の泣き声を聞いていました。 

「陽介さんとの生活は、心地よい物でした」 
 私は泣き声交じりに言いました。相変わらず、雨の音が響いています。風が強いから、きのこの家の中にまで雨が吹き込みます。 
「陽介さん、私の身の上を聞いたときにも、顔色一つ変えません。あんまり興味なさそうでした。それが、私の中ですごく印象的で」 
 とても好印象でした。父のことも「そう」とか「大変だね」で済ませていただけるような気がして。 
「いや、待って」 
 しんみりとした私に、陽介さんはどことなく慌てた調子で口を挟みました。わずか窺い見ると、困ったように頭を掻いています。 
「僕が、伊織ちゃんに同情しなかったとか、そんなふうに見えた?」 
「どうでもいいと思っているように見えました」 
 私が肯定すると、陽介さんはなおも頭を掻きむしります。どうしたことでしょうか、口元を歪めて弱ってしまったようです。 
「そんなことはないんだ。いや、僕はこんな調子だけど」 
 陽介さんは、一度口を結びます。言い難そうに俯き、私をちらちらと眺めていました。 
「伊織ちゃんを気の毒に、思わなかったわけじゃないんだ。……だって君は」 
 息を吐きます。観念したように。 
「君はそんなに良い子だし、……とても可愛らしいから。辛い境遇にあるのなら、なんとかしてあげたいと思った。僕の部屋、掃除してくれたしね」 
 陽介さんの頬が、微かに赤いです。瞳はとても、照れくさそうでした。 
 いいえ、でもそれよりもずっと、私の顔の方が赤くなっています。どうしてでしょう。どうしてでしょう? やっと陽介さんが私の魅力に気が付いたというのに、達成感というものがまるでありません。代わり、胸がもにょもにょとします。 
「陽介さん」と私は言いました。聞いてみたい事があるのです。 
「私の父を、どう思いますか?」 
「面白い人だね」 
 陽介さんは即答しました。それからはっと口元を押さえました。答えを間違えた、生徒のような様子です。 
「いや、立派な人だと思うよ。伊織ちゃんを育ててくれた人だ」 
「嘘はつかなくても良いですよ」 
 取り繕ったようなその言い方に、私は笑いました。最初の返答が、きっと陽介さんの本心でしょう。陽介さんは、面白い方です。朴念仁だなんて思っていてごめんなさい。嘘です。とても素敵な方です。 
 涙はいつの間にか止まっていました。頬が張り付いて、ちょっと痛いくらいです。 
 気がつけば、雨も降り止んでいました。まだまだ晴れからは程遠いですが、雨雲はどこかへ行ってしまったようです。 
「帰ろうか」 
 陽介さんが言いました。 
「帰りましょう」 
 私も答えます。 
 帰ります。陽介さんの、三○五号室に。 

 × 

 その後のことは、かいつまんでお話しさせていただきます。 
 私は陽介さんのお部屋の間借り人として、相変わらず住まわせていただいています。六畳間は、今は本棚や勉強机や、さまざまなものが増えました。私のお部屋です。 
 ところで、もうひとつ六畳間があったことを覚えていますでしょうか。あそこにも、今は住人がいます。父です。 
 厚顔で恥知らずな父は、陽介さんの家に居候することとなりました。仕事をするようにと私はせっついているのですが、相変わらずやる気があるのかないのか。ときどきふらっと出て行っては、ふらっと帰って来る生活です。そんな父を、陽介さんは面白がっています。私は面白くありません。 
 借金はどうしたかと言えば、まだあります。お金持ちらしい陽介さんが「払ってあげようか」と提案したこともあります。父は喜んで受け入れようとしました。しかし断固、それは私が許しません。父を甘やかしてはろくなことにならないのです。 
 私は。 
 私は最近、中学校に行っています。父が見つかった、と友達に伝えると、みんな「良かったね」と言ってくれます。私の周りは、親切な人ばかりでした。 
 私、勉強します。卒業したらたくさん働きます。今は陽介さんの好意に甘えるばかりですが……必ずや恩を返します。 
 そう言うと、陽介さんは笑います。穏やかで、おっとりとした顔で。 
「いいんだよ。僕が拾って来たんだから」 

 × 

 私は薄幸の美少女です。だけど、のちに幸せを掴んで幸福の少女となるのです。 
 薄幸の美少女とは、重い病気で入院して、儚く死んでいくものですって? いいえ、それは違います。断じて違います。だってそれじゃあ、悲しすぎるではありませんか。 
 最後は必ず幸せになるんです。 
 私は今、満ち足りていますもの。 



終わり 




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