<1>

 シャルの性格は苛烈にして単純。物事を深く考えず、思う様に行動してきた。
 そもそも、この後宮に志願したのはシャルだ。幼馴染のネイは、半ばシャルに付き合う形でついてきたに過ぎない。
 シャルもネイも、退屈な田舎暮らしに飽き飽きしていた。王城に近い後宮に暮らせば、得も知れぬ都会的な刺激に触れられると、田舎者らしく信じていた。もちろん、若き王の心を射止めたい。素晴らしい世継ぎを産み、この不安定に傾いた国を建て直したいという思いもあったかもしれない。しかし第一には、やはり見知らぬ世界への憧憬があったのだ。
 シャルが後宮行きを誘ったとき、ネイは一も二もなく同意した。きっかけを待つネイは、誘えば必ず乗ってくると、シャルにはわかっている。
 このときは、まだ後宮がこれほど変化のない、しかして平和な場所とは思いもしなかった。シャルの思い描く後宮は、王の寵愛を巡り争う、女たちの戦場だった。王のいない後宮というものは、競う必要のまったくない単なる集合住宅である。長く暮らすうちに、挨拶を交わし、立ち話をする程度には親しくさえなってしまった。
 退屈を嫌うネイには耐え難い場所だろう。シャルは幼馴染のネイの性格をよく知っていた。いつしかネイが、後宮を抜け出してどこかへ行くようになったことも知っている。
 では、どこへ向かっているのか。
 そればかりは、さすがのシャルも知らなかった。わかるのは早朝に部屋を出て、後宮の庭園の隅にある抜け穴から、どこかへ遊びに行っていることだけだ。

 シャルは薄紅の衣を引き、供もつれずに深く木の繁る塀に沿って歩いていた。愛想の悪い灰色の石塀は、後宮を大きく取り囲む檻だ。内から出て行くことも、外から入り込むことも拒む。この生い茂る木々は、塀を隠して、閉じ込められていることを忘れさせるためにある。
 シャルの足は、何度も折れた木の枝を踏み、重い石を蹴り上げた。衣の裾は泥に汚れ、結い上げた頭には葉が落ちる。仮にも後宮の女であるシャルには、美意識にかなわぬ場所だ。
 ネイの後を追いたい。
 シャルは不快に眉間をしかめさせながら、ただそのことを思っていた。幼いころから、同じことばかりしていた。いや、シャルが一つ年長な分、ネイがシャルの後を追うことが多かった。それが今では、シャルにはネイの行動の見当もつかない。いつも一緒だったネイが、シャル一人を置いて、いつもどこかへ消えていってしまう。
 ――生意気よ。
 シャルは足元のぬかるみを思い切り踏みつけると、荒く息を吐いた。気がつけば薄い衣は裂け、鮮やかだった金模様の靴は泥と変わらない色になっている。こんな格好になってまで、どうしてネイを探さなければいけないのか。そう思うとなおさら苛立つ。
 不機嫌なまま、シャルは目の前に立ち並ぶ木々をにらんだ。壁を隠すように枝葉を広げる木々。その下草さえも深く、足元もよく見えないほどだった。
 シャルはふと、目を凝らす。
 視線の先の深い茂みに、違和感を覚えたのだ。壁際に沿って生える枯葉混じりの草むらが、微かにうごめいている。犬猫にしては大きい。それ以前に、後宮には鳥の他に、獣が入り込むことさえできないはずだ。
 戸惑うシャルを尻目に、草むらはふらふらと揺れる。まるで誘うような動きに、シャルは足音さえ忍ばせて、慎重に近寄っていった。
 シャルがすぐそばまで近寄ったとき、ひざ丈ほどの位置まで伸びた茂みが、ひときわ大きく動いた。と同時に、草むらを突き破って一本の腕が伸びてくる。
 ――腕?
 五本の指が、何かをつかもうと空中をうごめく。傷だらけで痩せた、骨ばった指だ。
 人である、と認識するより先に、シャルの手が伸びていた。シャルは細く白い手で、何者かの腕をつかんだ。
「だれ!」
 シャルの声に応えるように、茂みから頭が突き出した。木の葉と枝で飾られた短髪の頭をシャルは見下ろす。
 垂れ下がる前髪の下から、暗い瞳がのぞいた。警戒心の強いその目と、シャルの目が合う。その顔を見て、シャルは思わず言葉を失った。
 幼いころから、黒真珠と評されていたシャル。世に自分より美しいものはないと思っていた。そんなシャルが、反射的に「美しい」と感じた。
 顔立ちはいまだ幼い。頬は子供らしい柔和さを残し、瞳は大きく、木々からもれるわずかな光を反射していた。日焼けした肌と、傷ついた鼻先が惜しいくらいだ。
 長いまつげは女性的で、しかしその強い瞳は女子には出せぬものだった。さながら、牙の生え始めた野生の獣だ。女ならばこの後宮の主になれるほどの美貌だ。男児としても、陛下の寵愛を受けられるかもしれない。
 腕をつかまれたまま、少年もまたシャルを見ていた。わずかに口を開いたその様子から、驚きと戸惑いが見て取れる。が、すぐに少年は口を堅く結び、シャルの手を振り払おうとした。我に返ったらしい。
「曲者! 待ちなさい!」
 我に返ったのは、シャルも同じだ。逃れようとする少年の腕を意地でも離さず、大きく声を上げた。
「この後宮に何の用です!」
「離せ!」
 少年は再び茂みにもぐりこみ、凄みのある声を出した。彼の力は存外に強く、腕をつかんだシャルは、逆に茂みに引きずり込まれそうになる。
 人気のない木々の下で、それからしばらく「離せ」「離さない」と腕の引っ張り合いが続いた。大きく草むらを揺らして、叫びに近い声を上げても、気がつくのは鳥だけだ。誰かが来る様子はなく、拮抗した争いはこのまま夜まででも続くと思われた。
 先に折れたのは少年だった。
 シャルは疲れ切っていたが、おそらく数刻もたっていないだろう。突然少年は抵抗をやめ、茂みから立ち上がった。
「わかったよ」
 全身を表した少年は、想像以上に背が高い。シャルを目線ひとつ分見下ろして、まだ伸びたりないといった様子だ。そのうちシャルと、首一つくらい差がついてしまうのではないだろうか。着ているものは粗末なぼろで、そこかしこに張りつく小さな枝や葉は、この草むらに潜ったときについたのか、元からくっついていたかわからないほどに馴染んでいた。裾はことごとく破れ、日に焼けて色あせ、肩の縫い目がほつれている。
 腰にはそんな姿に不釣り合いな、細身の豪奢な剣が携えられていた。赤い鞘に金模様が巻き付いて、シャルは思わず目を奪われる。この少年、服を脱いで剣だけを携えた方が、よほど見栄えがするのではないだろうか。
 彼は片手で全身についた葉を払うと、逆にシャルの腕を握り返した。空いた手は腰の剣に伸び、次の瞬間には抜き放たれていた。
「俺を後宮に入れろ」
 剣先をシャルの首筋にひたりと据え、低く落とした声を出した。その姿は少年らしからぬ威圧感を放っていて、シャルはたじろいでしまう。目を自分の肩に落とせば、そこには白い刃がある。まるで冷気を放っているかのように冷たくて、心の中まで震えあがる。
「言うことを聞かないと……殺す」
 もちろんシャルは殺されたくない。人気のない後宮の森で一人殺されたとあっては、見つけられるにもしばらくかかるだろう。無残な死体となって鳥たちに食い荒らされ、ようやく女官たちに見つかるに違いない。
 ――この、黒い宝石とまで謳われた私が。
 そんなみじめたらしい死に方をするのか。それも、自分よりも年下であろう少年の手によって。
 そう思うと、寒気と同時に怒りが湧いてくる。死ぬのは嫌だ。少年が自分を殺そうというのは恐ろしい。
 ならば言うことを聞くのか?
 そう問われたなら、シャルは即座に否と言う。不埒者におどされて、後宮の規律を破るいわれがあるものか。田舎者と言えど、貴族の誇り高さは忘れてはいない。相手の方から乞い願い、地面に頭を擦りつけて「どうしても」と言うのなら、聞いてやらなくもないものを。
「否!」
 シャルは背筋を逸らし、自分より背の高い少年を見下ろしながら言った。怒りが恐怖を押しのけた瞬間である。
「どうして私が、あなたを後宮に入れなければいけないの。ここは女たちの住む世界。あなたの入るすきはないわ」
 少年はシャルの言葉に面食らったように、大きな瞳をさらに見開いた。それでも片手に握る剣は動かず、怒れるシャルにひた据えたままだ。
 驚く少年の顔が、だんだんと不快感にゆがめられる。
「この剣が見えないのか。俺の言うことを聞くんだ」
「剣くらい見えているわよ!」
 シャルが大股に一歩、少年に近づいた。少年の鼻先が、胸を逸らしたシャルに触れるほど近くなる。少年の腕から一直線に伸びた剣は、歩み出した隙にシャルの首に細い傷をつけたことを、シャル自身はまだ気がついていなかった。
「こんなもので脅したって、理由もわからないで中には入れられないわ。入った途端に殺されるかもしれないじゃない」
 見上げているのに見下げている。恐れを知らないシャルの、横柄ともいえる態度を見て、少年は何度も瞬きした。もう一度脅し文句を言うつもりか、口を開きかけるが、上手い言葉が思いつかないらしい。少年は唇を尖らせ、はじめて年相応の声を出した。
「死んでも俺を入れないつもりかよ。殺されるんだぞ」
「入れないなんて言ってないじゃない」
「は?」と短く切った少年の声は、声変わり前なのかまだ細くて高い。瞳は大きくシャルを映しだす。真意を探りかねているようだ。
「どうしてこんな所へ来たの。なにをしに来たの。私が納得できる理由で、礼儀を尽くすのならば考えてあげるわ」
「…………」
 少年は片手で口元を覆い、地面へ視線を落とした。なにを考えているかはシャルにはわからない。ふんぞり返ったままのシャルに対して、少年は落ち着かず、足で枯草を踏みにじり、たまに土を蹴り上げる。
 長い時間ではなかっただろう。木々の合間を春風が吹き抜けたとき、少年はやっと剣を収めた。
「……兄に、会いに来たんだ」
「兄?」
 シャルが首を傾げるのも当然である。ここは後宮、女の園だ。王の妻たる彼女たちの居場所へ踏み込めるのは、王その人か、去勢された男に限る。
 ――つまりは、宦官。
 シャルは後宮勤めの宦官を数人知っている。しかし彼らは、常に後宮の仕事だけをしているわけではない。宦官は不可侵の後宮と王宮をつなぐ架け橋であり、その主な仕事は王宮にある。
「どうしてわざわざ、こちらに来たの。王宮に直接出向いた方が早いわよ」
「…………王宮は広いから」
 迷子になる、と言うことだろうか。そのために危険を冒して後宮に忍び込むというのは、シャルには少し理解しがたい。しかし、少年はそれ以上に理由を述べるつもりはないらしい。「兄とは誰か」「忍び込まなくては会えないのか」と尋ねても、黙って足元の草を踏みつぶすだけだった。
 ふん、と鼻から息を吐くと、シャルは自分の来ていた上衣を脱いだ。そして目の前の少年に、頭からかぶせる。薄く透けた赤い衣の下で、少年が目をぱちくりとさせているのが見える。
「そんな恰好じゃ目立つでしょう? できるだけ隠れて、私の後をついてきなさい。見つかっても女のふりをするのよ」
「なに……?」
 衣の端を探しながら、少年が困惑の声を上げた。対照的に、シャルは笑い声をあげる。緊迫した空気を払拭する、明朗な声だ。
「連れて行ってあげるって言っているのよ。あなたの望む後宮にね」
 少年はただ、言葉もなく驚くばかりだった。罠だ、と思ったかもしれない。このままついて行けば、役人に突き出されるだろう、と。
 しかし違う。シャルはそんなことは考えない。今のシャルに欲しいのは、暇つぶしの材料ともう一つ――秘密だった。
 ――ネイばかり、一人で先に行かせないわ。
 幼馴染のネイに匹敵する、自分だけの隠し事が欲しい。シャルは、そんなふうに単純にできている。
 夢中になると、シャルはあまりいくつもの物事に気をかけられない。何気なく首筋を撫で、滴るほど手についた血で、ようやく傷に気付くように。




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