<2>

 卓子の上には散らばった茶菓子と、割れた茶器。見る間に広がっていく濁った水は、卓子の端から滴り落ちて床を濡らす。自慢のがらくたは踏み荒らされ、棚の書物はことごとく床にぶちまけられている。
 賢老人たちは、鉢に植えられた枯れ木のように、部屋の隅で小さくなっていた。よく見れば微かに震え、それでもなお、気に入りの珍品だけは腕にしっかりと抱きかかえている。

 窓を背にして、黒い布で顔と全身を覆った男が一人。廊下側の扉を背に、同じ格好が二人。それぞれがそろいの細い剣を手にして、ちらばった賢老人たちを威嚇していた。
 隣室から踏み込んできたシーリィに、男たちは一斉に目をむけた。顔は黒布で覆われていて、唯一のぞく瞳にはまるで感情が見えない。おそらくは賢老人たちの命を狙いに来た暗殺者なのだろう。
 いや、暗殺者と言うにはずいぶん乱暴だ。当の賢老人よりも先に、棚や卓子を荒らすのだ。それとも賢老人たちが、逃げ惑う際にぶつかってしまったのだろうか。
 奥の間へと続く扉の前に、誰もいなかったのは幸いだ。シーリィは腰の剣を抜き、なにも言わぬままに男たちに切りかかった。

 まずは、窓際にいる男に。男は反射的にシーリィの太刀を受けるが、細い剣では耐え切れずはじかれる。続けざまにもう一撃入れようと腕を振り上げたシーリィの背に、二つの気配がした。殺気立つ黒い男たちだ。二人は同時に、細い剣を下す。
 素早い、が、それだけだ。暗殺者にとってみれば、その速さで命を奪えれば十分なのだろうが。
 シーリィは目の前の男を蹴り倒すと、振り上げた剣で男たちの攻撃を防ぐ。受け手でありながら、シーリィは二人の太刀にも揺らがない。剣を払うシーリィに、二人は警戒するように距離を取った。
 力の差は圧倒的だった。黒い男たちも、相当な手練れだろう。しかしシーリィの前ではまるで歯が立たない。重い太刀、力強い動きでありながら、シーリィの剣技は優雅だった。
 二人の黒い男たちは一瞬視線を交わすと、左右からシーリィに突進した。細い剣は上段から下段から、挟み込むように振り下ろされる。その剣の速さは至極。手練れを思わせる暗殺剣だ。回避は不可である、と誰もが思っただろう。
 ――シーリィの他は。

 シーリィの肩と膝を狙う、二人の剣の切っ先がかする直前、シーリィは大きく身を反らした。黒い男は、さらされた互いの体に向けて、勢いづいて止められない剣を振るう。
 細い剣は、仲間の肩へ突き刺さり、膝を裂いた。赤い血が吹き、剣を取り落とし膝をつく。詰所の床が赤く色づいていく。細い悲鳴を上げたのは、どの老人だろうか。
 シーリィは悲鳴に振り向くこともなく、膝をついた男の手を踏んだ。指の骨が折れるほどの力に、男は足の下で剣を手放した。一方で、シーリィは肩から血を流す男に剣先を向ける。男の暗い瞳には、相変わらず光も感情も見えなかった。
「誰の命令だ」
 返事はない。
「何の目的でこんなことをする。言わなければ殺す」
 シーリィの声は抑揚なく、淡々としている。男を見据えるシーリィの瞳は、言葉よりも雄弁に脅しが本気であることを伝えていた。
 しかし、男たちの反応は皆無だった。シーリィよりもなお無表情で、無機質な人形のようだ。一言も発しない男たちに、シーリィは寒気を覚える。
 ――なんだ?
 反撃の気配はない。命乞いをする気もないようだ。剣を失った暗殺者など、そんなものだろう。しかし、こうも感情の片鱗さえ窺えないものだろうか。はたして自分は、人間を相手にしているのか、シーリィはそんなことさえ思う。
 しばらくの無言のときが過ぎた。変化は、刃を突き付けた男が発した、初めての言葉だ。

「……ぐっ」

 それだけだ。それが、最初で最後だった。男は糸が切れたように崩れ落ち、赤い床に横たわって動かなくなった。その顔は眠るように安らかだ。見れば、同じ床に倒れた残りの二人もまた、同じ表情をしている。手を踏みつけた男の頭を、足で小突いても、指の先ひとつ動くことはなかった。
「毒ですか……!」
 いつの間にかやって来ていたらしいネイが、扉の前で口元を押さえていた。部屋の隅で震えていた老人たちも、おそるおそるシーリィの元へ集まる。
「あらかじめ、なにか飲んでいたのだろう」
 剣を交えてから、そんな素振りはなかった。遅効きの毒を、ここへ来る前に含んでおいたのだ。はじめから死ぬことを定められていたからこそ、あんなに人間味がなかったのだ。
「わしらを殺しに来たのかのう」
 肩をすくめて、異民族の装いをしたエンジが言った。
「恨まれることをしておいでですか?」
 応えたのはネイだ。エンジを見下ろし、ネイはあきれたように眉をひそめる。
「さあのう。わしらもここでは長いから、どう思われてもしかたないのう」
「そうですか。……ところで先生、なにを抱えていらっしゃる?」
 ネイはエンジの抱えた丸い壺を見て、ため息をついた。エンジは「ほっほ」と老獪な笑い声をあげ、さらに壺を抱き寄せた。
 二人から目を離すと、そそと近寄ってくる禿頭の老人に気がついた。
「シーリィ」
 そう囁いたのはシェン太傅である。角ばった顔をシーリィに向けて、にやりと気味の悪い笑みを向けた。
「素晴らしい腕であった。まさに王にふさわしい」
「剣を振るだけの王などいるものか」
 シーリィは顔を背けると、所在無く窓の外へと目をやった。春の柔らかい風が、荒れた詰所に吹き込んでくる。これほど穏やかなのに、シーリィの心は落ち着かなかった。

 ――ネイはわかっていないのだ。賢老人のことを……。


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